今、空を自由に走り回っていますか?
「きょうだいみたいだよね。」
「うん、3人ともそっくり。」
「なんだか、嬉しいね。」
赤、クマの柄、黄色、それぞれの車椅子に座る三人は、同じ角度に首を傾げ、「あーしっ」「ててて」「あー、あー」と声を出している。
長いまつ毛、ふっくらとした頬、少しぽかんとあいているお口、驚くほど似ていて。
きっと、遠い先祖が一緒なのだと、私たちは笑い合った。
これは22年前の、最初で最後になってしまったオフ会の話です。
毎年12月3日が近づくと、愛らしい大切な子どもたちを想い浮かべてしまいます。
(命に関係するお話なので、しんどいなぁと思われる方はここで閉じてくださいね。)
*****
娘が通っていた居住地域の療育施設やかかりつけの病院には、娘と同じ病気のお子さんはひとりもいなかった。
10万人に1人か2人というめずらしい病気なので、無理もない。
娘が3歳になった頃、私は情報や仲間がほしくて、娘と同じ疾患の人をネットで探してみることにした。
すると、娘より一歳上の、こうくん(仮名)という男の子のホームページに辿り着いた。
彼の笑顔がとにかくかわいい。
娘と、やっていることがそっくり。
ホームページは、ご両親の彼への深い愛情が伝わるような素敵な写真がいっぱいで、この疾患のネガティブなイメージを吹き飛ばすようなエピソードで溢れていた。
私はこの出逢いに心を救われた。
思い切ってこうくんのママにメールをしたことから、私たち母親の交流が始まった。
お互いの子どもの様子、悩みや不安をメールで相談し合い、泣いたり笑ったり。私にとって、こうくん家族は心強い存在になっていった。
さらに、同疾患のまいちゃん(仮名)をこうくんママから紹介してもらった。
まいちゃんは娘と同級生で、瞳がクリクリの女の子だ。
まいちゃんママも、私と同じ理由でこうくんと繋がりを持った人だった。
情報交換をしながら、三人の母親どうしの絆が深まっていった。
娘と同じ病気のお子さんのうち、九割はおすわりもおしゃべりもできる。電動車椅子だって乗りこなす。
でも残りの一割は、首も座らず、ことばの理解も厳しい。
娘も、こうくんもまいちゃんも、後者の一割の方だった。つまり、3人とも重度タイプ。
それが一層、私たちの連帯感を強めた。希少なタイプの同世代の三人が出逢えたことは、奇跡だと思った。
二人の住まいは関東方面で、わが家だけがずいぶん離れていた。
娘が3歳の夏、思い切って彼らに会うため、関東方面へ家族旅行することにした。(もちろん、大好きなサンリオピューロランドへも行く予定で。)
宿泊先のホテルに彼らの家族も来てくれて、レストランで一緒に夕食を食べた。
「わぁ、やっぱりそっくりだね。」
車椅子に座る三人が並ぶと、顔だけでなく、しぐさや興味の向け方、食べ方までがまったく同じだった。
膨大な荷物の量や、作ってきた子どものためのペーストのごはん、車椅子まわりの補装具の工夫からも、親の深い愛情が伝わる。
会話が終わらないほど有意義で、夢のような時間を過ごした。
それぞれの子どもを抱っこし合って、パシャパシャ写真を撮り、3人とも同じ抱き心地だったことに、安堵と愛しさを感じ合った。
「来年の夏は、みんなの家の中間地で、また会おうよ。長野あたりがいいかなあ。」
そんな再会の約束をして別れた。
でもその日が、皆で会えた最後になった。
娘の病気は体調管理が難しい。
食事の誤嚥、けいれん発作、感染症からの肺炎など、体調を崩しやすいうえに、いったん崩れればあっという間に、命に関わるほどに悪化する。
三人のうち、誰かが常に調子を崩しているような状況なので、再会は、毎年先延ばしになってしまった。
小学4年生になった娘は、感染症を繰り返し、長い入院も経験した。
その年はほとんど学校に行けなかった。
そんな時、こうくんの訃報が届いた。
さらにその三ヵ月後、今度はまいちゃんが急に亡くなってしまった。
立て続けに、大切な友を失った。
支えを無くした私は、ショックのあまり、娘を外に連れ出せなくなってしまった。
娘もいなくなりそうで怖かった。
10歳だ。
まだ、二人ともたった10歳だった。
なんて残酷な病気だろうか。
何をしていても涙が出て仕方なかった。でも、ずっと家に籠ることは、娘の心を殺す。
娘は社交的で、積極的な性格だ。
「やりたい、行きたい、会いたい。」
娘のその想いは大事にしたい。
わかっていても、今を維持しなくてはという気持ちが、私をどんどん消極的にする。
とにかく怖いのだ。
そんな私を、夫は急かさないでいてくれた。
ただ「ゆうは強いから、大丈夫だ。」とだけ、いつも言ってくれていた。
ゆうの誕生日が近づいて、ふっと、これではダメだと思うようになった。
「おばちゃん、僕らの分まで、ゆうちゃんを楽しませてあげてね。無理し過ぎる手前で休んだらいいんだから。」
そう、彼らが教えてくれている気がした。
そんな都合のいい解釈をする自分が、ずるいなぁとも思った。なんだか彼らに申し訳なくて。
でも、止まっていてはいけない。
ゆうの一日一日を、輝かせてやりたい。
今までより少し丁寧に、娘らしく生きればいい。
そうしてまた、娘を外へ出せるようになった。
*****
あれから約15年が経ちました。
彼らのママたちとのメールのやりとりは、悲しみと一緒にパタリと無くなったけれど、お互いに年賀状での交流は続いています。
12月3日、ゆうが生まれた日は雪が降っていました。
今日は雲ひとつない快晴。
ゆう、25歳になりました。
今年は、たくさんの人が、ゆうと繋がってくださいました。
ありがたいなぁと思います。
誕生日が近づくたびに、あの夏のオフ会を思い出して、少し切なくなります。
今朝、空を見上げて、こうくんやまいちゃんを、そして、幼くしてお空に旅立った、何人もの娘の学校時代の友達を想いながら、心で話しかけました。
「もう、ゆうはアサラーだよ。ねぇ、おばさんだよね。」と。(笑)
晴れわたる青空、まるでみんな笑顔で、自由に走り回っているようです。
今夜は胃ろうから、酎ハイでも入れますか、ゆう。
長い文になりました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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