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本の声に耳を澄ませて、娘の言葉を重ねてみる
帯の言葉に、ドキッとして、胸がチクリと痛む。
「私の身体は生きるために壊れてきた。」
『ハンチバック』
市川沙央さんの、芥川賞受賞の作品だ。
芥川賞受賞者の記者会見をたまたまニュースで観た。
気管切開した首のカニューレを指で押さえながら、ゆっくりと話をしている車椅子の女性作家の言葉に、グッと惹きつけられた。
市川さんは会見で、
「重度障害者の受賞者や作品がこれまであまりなかったことを考えてほしい。」と語られている。
確かに、と思った。
書く人が少なかったのか、書く術がなかったのか、書いたものが評価してもらえなかったのか。
そこにも、差別的なものがあるのか。
本を読み始め、冒頭からの官能的な描写に正直驚いたが、一気に読み終わると、本から泣き声が聴こえてくるような気持ちがした。
小説だが、これは作者の声だと思った。
自分の想いを同じ病気の主人公が代わりに語ること、想像で作り出した大胆な行動を自分の代わりに主人公が行うこと、そこから生まれた言葉が、さらに強いメッセージとなって読む人の胸に迫ってくる。
作者の「あなたには、わかるわけがない」という叫び。
作者の「あなたにも、わかってほしい」という願い。
作者の怒りと問いかけで作られたような作品だと思った。
作者の市川さんと同じ病気ではないが、私の二女も筋肉が壊れていく病気なので、大きな括りの中では同疾患の仲間だ。
市川さんと大きく違うのは、知的障害があるかないか。
娘は重度の肢体不自由に加えて、重度の知的障害も持っているので、相手の言葉が理解できないし、言葉で本人の気持ちを伝えることもできない。
痛い、痒い、つらいなどを言えないことは、親としては申し訳なくて、もどかしくも思う。
でもある一面では、本人が未来を憂うことがないのは、少しだけ救いかもしれない、と思うこともある。
本を読んでいると、ところどころで、娘もこう思っているのかもしれない、という気づきにも出会える。
(以下、ネタバレがあります)
例えば、痰吸引をしたら、
奥から湧いてきた痰をふたたび吸引して取りきると脳に酸素が行き渡って気持ちが、いい
と表現されている。
本人にとっては痛いかもしれないと思っていた痰吸引が、実際にはそんな感覚なのか、と思った。
気持ちが痛んだのは、主人公の女性が自分を
『せむしの怪物』
と表現するところ。
この自虐的な言い方に、作者の深い悲しみを思う。
娘の小さな背中をさすると、弓のように張り出してS字に曲がっている背骨に手が触れる。
『怪物』なわけがないよなぁ、と、思わず涙ぐんでしまった。
病気のせいで側弯が進むと、肺がつぶれて呼吸は苦しくなるし、一定の姿勢が維持できなくなる。
私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、ー5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。
この文章には、当たり前のありがたさに気づかない自分たちが、もしかしたら罪なのかもしれない、とさえ思わされてしまう。
身体の痛みと闘う日々。
本を読むのも痛みが伴う。
だが、たとえ短時間でも、本を読むことができる身体を維持するために、主人公は読むことに毎日挑む。
そんな主人公の努力と不自由さは、健常である人への憎しみに繋がっていく。
市川さんご本人の体験がなくては書けない感覚だろう、と思う。
さらに、女性としての苦悩も、本の中のあちらこちらから伝わってくる。
普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です。
残酷なくらいに悲しい一文だ。
肢体不自由の娘が初潮を迎えた日、彼女が大人になって嬉しいというよりも、悔しくて泣いてしまったあの日の私の感情を、読みながら重ねてしまった。
自分の想いや体験を書いたエッセイより、物語の主人公の言葉のほうが、実は作者の本音が込められているのかもしれない、と思うような小説だった。
あえて、かなり攻めた描写を入れながら、読者の心に鋭い爪痕を残す、ずっしりと重い作品だと思う。
「誰一人として、怪物なんかじゃない。」
私は本を閉じた後、誰に向けた怒りなのかもわからないまま、そう心でつぶやいた。