いつも、そばにいるからね
「・・・・・・いいからね。」
自分を疑った。なぜ今、こんな言葉が浮かぶのか。消したくても、頭の中でこの非常識が繰り返される。
「バカなの?何を考えているの?大好きな人とのお別れなのに。」
焼香を待つ間、自分が自分と喧嘩してた。
悲しくて仕方ないのに。
涙が溢れてとまらないのに。
これは、先生の声だろうか。
先生は、体育の日の前日に亡くなった。
「子どもたちみんなが、葬儀に来られるように、先生は気遣ってくださったのかもしれないね」と、参列者が口々にそう言っていた。そのくらい、先生は誰に対しても優しく、心を尽くす人だった。
葬儀場は、入り口の外まで人で溢れている。娘を含め、たくさんの車椅子の子どもたちが、先生との最後のお別れに参列していた。
私の二女は、福山型筋ジストロフィーという、徐々に筋肉が壊れていく難病だ。
寝たきりの状態に加えて知的障害もあるため、一般の保育園には入れられなかった。だから私は、育休明けと同時に仕事を辞めた。
当時の私は、娘をどう育てていけばいいのかわからず、不安で仕方がなかった。そんな時、娘の主治医から地域の療育施設へ通うことを勧められた。
そこは、娘と同じように障害を持った子供たちが親と一緒に通う保育園だった。
私は仲間や情報が欲しくて、まだ1歳半になったばかりの娘と一緒に、園に通うことを決めた。
先生は、娘が年中児のときのクラスの担任だ。
私より10歳ほど年上の女性で、少年のようなショートヘアにキラキラした瞳。
会ってすぐに「情熱を持って、子どもたちを伸ばす力がある先生」だと思った。
6人のクラスメートは全員が肢体不自由だが、子ども一人ひとり、障害の程度も種類も違う。先生はよく私たち親に言っていた。
「わからないことは教えてね」
「なんでも話してね」と。
押し付けることも、知ったかぶりもしない。
とにかく「寄り添う」人だった。
卒園しても、先生との関係はずっと続いた。
どんどん進行する娘の病気に、私は時々心が折れそうになった。
少しずつできることができなくなる。
風邪やインフルエンザなどに感染するたびに入院し、ひどいときは挿管もした。
徐々に食べられなくなる。
人工呼吸器も必要になってくる。
娘の病気のステージが上がっていくたびに、私は先生に頼ってきた。
先生はいつも優しく受け止め、私たちが前を向けるように支えてくれた。
つらいことがあると、一番に浮かぶ先生。
嬉しいことがあったら、一番に聞いてほしい先生だった。
そんな先生がひどく痩せたのは、娘が中学生になった頃だった。
「私、癌になってしまって。でも、必ず治すから。頑張っている子どもたちに負けられやんからね。」
そう笑う先生に、私はかける言葉が見つからなかった。
「私も、娘と一緒に、毎日を頑張っていこうと思います。」
そういうのが精一杯だった。
何度も再発を繰り返しながら、必ず元気になって職場に復帰される姿に、私は、娘と先生を重ねていた。先生の闘いが、娘の未来への希望のような気がしていたのだ。
娘が特別支援学校の高等部を卒業して2年目の春、先生は娘に会うため、わざわざ我が家まで来てくれた。
会うたびに先生は、小さく透明になっていくようだった。
ウィッグをかぶり、きれいに化粧をして、オレンジの洋服をまとう先生は、少女のように美しかった。
「癌は私が好きみたい。今度は頭に転移してしまって。頭の腫瘍は、やっぱり怖いの。私が私じゃなくなることが一番怖い。」
淋しそうにそう言って、先生は娘の手を握った。
娘は、なんとか動かせる指先に力を込め、先生の手をぎゅっと握り返した。
娘なりに、先生を励ましているかのようで、私は胸がいっぱいになった。
その頃の娘は、呼吸状態が悪くなり、気管切開することを医師に勧められていた。
手術をすれば、呼吸も楽になり、いざという時に命を助けることもできる。
でも、それと引き換えに「声」という、娘の唯一残っている「自分の思い通りになるもの」を奪うことになる。
「声だけは守ってあげたいね。声を失ったら、心が壊れてしまいそう。」
娘のまわりの人全員が、早く気管切開することを勧めるなかで、先生だけが、回避できる方法はないかと最後まで言ってくれた。
それが、私には嬉しかった。
先生も、次々にできることが奪われていく娘と、先生自身を重ねているのかもしれないと思った。
結局、その数か月後に娘は気管切開をした。
娘の命を守ることを、私たち親は選んだ。
手術が無事に終えたことを先生に連絡すると、
「生きることが一番大事だと、教わった気がします。私も頑張るからね。死なないから。どんな姿でも、絶対にしぶとく生きるからね。」
そう返信があった。
先生と最後に会えたのは、入院先の病室だった。
病室での先生は、手にも麻痺が出て、起きているのも辛そうだった。
食べにくい手で、懸命に病院食のうどんを口に運ぶ先生は、生きることに必死なのだと思えた。食欲が無いことは、顔色からもうかがえる。
先生と一緒に昼食を食べようと、病室に来る途中、私は院内の売店でパンとジュースを買っていた。
「来てくれて嬉しい。どんな姿になっても会いに来てほしいし、私を見てほしい」
ぽつりと先生が言う。
私は泣きそうになった。
慌てて、口の中にパンを詰め込んで、ジュースで奥へ押し流した。
人生で一番、味のないパンだった。
その日から3カ月後に、先生は息を引き取った。
先生の教え子で溢れかえった葬儀場には、焼香の長い列ができていた。私だけでなく、その場にいる全員にとって、先生はかけがえのない存在だった。すすり泣く声がホールに響く。
焼香の順番があと少しで回ってくる。
ストレッチャー式の車椅子の上で、娘は人工呼吸器を付けながら横になっている。私は娘の手を握りながら、自分の中で聞こえる良識を欠く「声」に驚いていた。
「死に損なえばいいからね。」
そうか!これは、「しぶとく生きなさい」という、先生からのメッセージだと思った。
先生が、娘の命を激励している。
負けるなと。
筋力が落ちても、病気が進んでも、生きなさいと。
どん欲に生きてほしいと。
約20年前、娘の病気を告知された日に当時の主治医から、この疾患に関する医学書のコピーを手渡された。
「平均寿命20歳」
びっしり書かれた説明書の中からその文字を見つけて、その場で泣き崩れたことを今でも覚えている。
そして娘は、その平均をわずかに超えたばかりだ。
いつも隣り合わせの死の恐怖に、私はずっと怯えてきた。
怖がらなくていい。
今を精一杯生きればいい。
先生の声と自分の声が、頭の中で混じる。
「死に損なってみるから、先生、私たちを見ていてください。」
優しく微笑む遺影に、私は心で語りかけた。
2022年5月に、加筆修正しました。
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