ありがとうが言えない
最近note仲間であるとろろさんの記事に
私の関心は持っていかれっぱなしである。
そんなとろろさんが
先日、またも興味深い記事をあげていた。
「ありがとう」が言えない問題である。
記事を読んでいるうちに私は
(あれれ?)と思った。
よくよく記憶を掘り返してみたら
私もありがとうが言えない人だったことを
ぱんぱかぱーんと思い出したのだ。
だが現在の私はめっちゃ言ってる。
ありがとうを連呼しまくっている。
はて?いつから言えるようになったのか?
そのあたりを思い出しながら
今日は記事を書いてみたいと思う。
・・・
結論から言ってしまおう。
「ありがとう」が言えない人というのは
親にかなり影響を受けている人が多い。
私もその一人だった。
親が悪い!全部親のせいだ!
なんて責任転嫁するつもりはないのだ。
親というのはそれだけ子に影響力を持っている。
そういうことが言いたいのである。
ウチの親は「ありがとう」を言わない人だ。
いや、正確に言うなら母親は言っていた。
ただし、そんなに頻繁には言っていない。
時折、恥ずかしそうに「ありがとうね」と
顔を赤らめながら言ってくれた記憶がある。
子供の私はそんな母親を見てなぜか照れた。
今思えば共感性羞恥心というやつだろうか。
(いいよいいよ!言わなくていいよ!)と
まるで「ありがとう」を覆い隠すみたいに
うやむやに受け止めてた記憶が残っている。
そんなわけで私の心には刻まれた。
「ありがとう」は滅多に言う言葉ではない。
「ありがとう」は恥ずかしさを伴う言葉だ。
そういった感覚がバシッ!と刻まれたのだ。
とはいえ。
学校で集団生活を行う以上「ありがとう」を
封印して過ごせるほど私は孤立していなかった。
ありがたいことに心優しい友達がたくさんいて
私に善い事をたくさんしてくれた。
そんな時にはさすがに言いたい。
「ありがとう!」と伝えたい。
でも口から出たのは「どうも」だった。
「ありがとう」と似たニュアンスの「どうも」。
似てはいるが、違う。感謝のニュアンスが弱い。
幼い私はどうしてこのチョイスをしたのだろう?
記憶を掘り返したら、そうだ、親も言っていた。
「どうもない」は親がよく言う言葉だったのだ。
そんなわけで小学校時代は「どうも」一辺倒で
乗り切っていた私。うーん、煮え切らない…。
「あ、どうも」なんて言う子は我ながら嫌だ。
私の価値観に大きな変動があったのは中学校。
クラスメイトにとてもカッコいい男子がいた。
彼がカッコいいのは顔面ではない。心なのだ。
「次郎くん、ありがとう!」
彼は私の目を見て真っすぐ、当たり前に言う。
感謝の言葉を。つつみかくさず。力強い声で。
私は不覚にも憧れてしまった。
私が女子生徒だったら惚れていただろう。
そのくらい彼の心はイケメンすぎていた。
いや待って…やっぱり顔面もカッコいい。
私の想い出補正も相まって彼はイケメン。
もうイケメンということで話を進めよう。
(私もありがとうって言いたいぞ!)
そんな野望の火が胸に灯った私だったが
なぜか、言えない。口から、出てこない。
恥ずかしくて恥ずかしくて、ダメだった。
いやでも無理すれば言える。無理すれば…
どのくらい恥ずかしいのかというと、そう…
好きな女子に話しかけるくらい恥ずかしい。
いやいやそんなわけないだろうと思うけど
当時の私はそのくらい恥ずかしかったのだ。
(まあ、言わなくても別にいいか!)
やがて私はあきらめる。
あきらめるのは私の得意分野だ。
恥ずかしい思いをするなら言わない方がマシ。
その道を私は選択したのだった。
・・・
そんなこんなで時が経ち
社会人になっても私は恥ずかしかった。
「ありがとう」を恥ずかしく感じていた。
仕事で形式上「ありがとうございます」と
言うことはあったけど、これは別物。
まったく心がこもっていない別物だ。
そんな私がどうして「ありがとう」を
言えるようになれたのか。
私の記憶が確かなら、それはモテ欲だった。
私は女性からモテるために
「ありがとう」を身に着けたのだ!
/(^o^)\ナンテコッタイ
書いてて恥ずかしくなってきたぞ…。
まあ、いいや。どんどんいこう。
二十歳くらいの私はとにかく女性が好きだった。
いやこれは健全なことだ、男性として喜ばしい。
だからいいのだ。なにも問題ない。…ないよね?
で、とにかく女性から好かれたい私は、考えた。
どうすればチヤホヤされるのだろう?と考えた。
雑誌やらネットやら数少ない女性の友人やら
いろいろ見て聴いて調べてみた結果、理解した。
感謝と謝罪がキチンとできる男はイケてる!と。
これは今でも間違っていないと思う。
二十歳くらいの私、よくやった。偉いぞ!
目的が定まったら行動が早いのが私の特徴。
さっそく私は「ありがとう!」を
手あたり次第言うようにしたのだ。
二十歳の私はけっこうお花畑だったが
いいのだ。方向性は間違っていなかった。
そういったわけで「ありがとう」が
言えない呪縛を力技で断ち切った私は
心があまりこもっていない「ありがとう」を
連発するフェイズに移行できたのである。
やがて歳月を経て、心がこもった
「ありがとう」を言えるようになったが
それはまた別の話。長いので割愛する。
・・・
とろろさんがご自身の記事で提唱した
「ありがとう」が言えるためには
は正直、良い取り組みだと思う。
そう思う理由は二つ。
①「無理やり」を禁止している
②「環境」を作ろうとしている
私の場合はリビドーが原動力となったが
そのくらい強い動機がないことには
自分の気持ちを変えるというのは難しい。
だから無理やりというのは意味が薄いし
自分以外の力である環境を活用するのは
とてもまっとうな方法だと思ったのだ。
珈琲次郎はとろろさんご夫妻を
応援しております\(^o^)/