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うつ・強迫性障害の日々ー生きる・症状にラベルを貼る

やっぱり朝起きてない
24時前には眠っている
でも起きれない
起きたい時間に起きれないから、投げやりで寝続ける
そうすると時計を見るのが恐ろしくなって、スマホを見ないで起き上がる
なんとなく着替えたり、プロテインを飲んだり、サプリを摂る
そうして、強迫観念の行為ではなく今自分がしたいことは散歩かな
散歩しようかなと思ってようやく時計をみると
2時とか3時の感覚だったがまだ12時だったので散歩にでた

神経症の人は完璧主義の人が多い
朝起きれないだけで一日が終わってしまえと祈ってしまう
でも何時に起きたって出来ることはある
ご飯を食べるとかお風呂にはいるとか
ちょっと洗濯するとか
何時からでもいい、出来ることからしたらいいのに
と、自分のことなのに思う

いつもの川べりを歩いているとふと、また公園に行ってみようと思った
完全な思い付きだった
でも公園までが遠かった
公園と言っても、正直、小高い山をまるまる公園と見立てたようなもので
歩き回ると1時間は軽く経過する感じだ
公園のなかには広々とした道路も走っていて、車もびゅんびゅん通る
まず公園にたどり着くまでが遠かった
入口にたどり着けなくて、ふもとを歩き回っている感じった
この間、サプリを買ったときに一緒に買った、ノーグルテンのナッツバーを食べたり、アイスコーヒーを飲んだりして歩いた
歩いているとふと楽しい気持ちになったりした
今日はWi-Fiを持ってくるのを忘れてしまったので、スマホに入っている曲を聴きながら歩いた
そうして13時~15時まで2時間たっぷり歩いて帰ってきた
少し休んでから、ティッシュを出すという作業などをした
それからコンビニに買い出し、そうして買ってきたものをすべて洗って夕ご飯を食べた
入浴もして、もう一度コンビニにケチャップだけ買いに行った
洗濯ものを畳み、洗濯機もまわした

強迫観念と行為が出てきたときに、これはOCDが思わせている
やらせている行為なのだと唱えることにした
そうすると10回拭かなければならないものが、9回くらいには済んでいるような気がする

歩いているといろんなことを考える

ずっと前にみた映画『インフォマニアック』を思い出した
でも過激な性に関することじゃなくて
主人公が森をとにかく歩く描写を思い出した
うっそうとした森を歩いて歩いて歩いて、そうして、彼女は自分の木を見つける
まえにYouTubeで、自分には頼る人がいない、親がいないという悩みに誰かが応えていたのも同時に思い出した
そういうときは神社などに行って、そこに祭ってある木、ご神木を両親だと思って相談したり、お話したりするときっと心が癒えるというものであった
そのことと混ざって、自分の木を見つけること、生きるというこを考えたりした

私の病についても考える
鬱とかそういう病気は、心の病とか風邪と言われるけど、私は脳の疾患だと思っている
それで、生まれつきその傾向がある人と、人生のあるときに、過剰にストレスがかかったことで、脳に疾患が発生しなる人がいるんじゃないかなということだった

私は幼いとき、幼稚園のときから自家中毒によくかかって一週間単位で何度も入院していた
幼すぎてなぜ自分が具合が悪くなって、吐いたり動けなくなるのかわからなかった
とにかくいつも具合が悪くてしんどかった
そうして、小学生になると治まったけれど、徒歩でいける範囲のところに、なぜだか、怖くて行けなくなってよく姉妹にキレられたりしていた
自分でもなぜ自分がそうなのかわからなかった
田舎に住んでいて、車社会なのに、車酔いも酷くて、何をするにも、具合が悪いのが付きまとって、生きていくことがしんどかった
親はそんな私が大人になると治ると思って接していたし、修学旅行も家族旅行もつれていかれた
でもどれも自分にはしんどかった
あまりにしんどくて、旅行の日は目が覚めるとすでに具合がわるかった
そうして、ふと気づくと、手汗をかくようになり、なんとなくスイッチなどが触れなくなり、手洗いを繰り返し、小児科に連れていかれたりした
そのことはネットもなかったし、幼くてよくわからなかった
自分のことを専門家でもないのに診断するのはどうかとも思うが総合的にみてみると、心がもとより弱いのかもしれないが、脳に何かしらあるのではないかと自分では思う
そんな感じだから、鬱はなんとか、今は出来そうな気がしているが、強迫性障害という、誤った信号を出し続けることがどうなるかとは思えない
汚いという感情が消えない
誤解をしてほしくないのだが、あなたが汚いのではない
私は自分の家族のある1人が汚くて仕方がないのだ
その人が生きて、日本にいると思うと、全てが連鎖的に汚い
それを拭い去れない
拭くこと、洗うことでその人の形跡をどっかにやって、自分を守ろうとしているのだ
そんなことになった自分のことが理解できないし、今後どうなるのかわからない
ただ、じゃあなぜ、こうしてnoteを書いているかというと1年前の自分と大きく変わったからだ
自分では気づかなかったけれど、書き記しているうちにようやくわかったことがある
指摘を受けることができた
それは1年前の自分は、死のうとしていたということだ
死ぬしかないと思っていた
どう考えてもすべての答えが死んだほうがいいということにたどりついた
それは、健常な人をも巻き込み、引きずりこむほどの思いだった
でもなんとか生きてあがいているうちに、死といういつも自分の頭上に重くのしかかる暗雲が晴れていくのがわかった
そうして生きていくことを選択できるようになった
生きているのはしんどいけれど、死が頭をもたげているときより今のほうがずっと楽だ
だから、それを書きたいとずっと思っていた
今、死を身近に感じている人のつらさがわかる
口を開けた、真っ暗なうねりのなかにいるようなつらさだ
でも、生を選ぶと、世界はシンプルになる
そのシンプルさに救われる
そのことを書きたかった
私は道半ばだ
これからどうなるかわからない
でも、今こうしている

今日できたこと
・散歩2時間
・入浴
・メール・手紙など処理
・3食食べた
・買い出しした
・日記を書いた
・プロテイン、サプリ摂った

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