オルテガ『大衆の反逆』⑦ 第6章・第7章 (自分の世界に引きこもる大衆)
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第6章「大衆化した人間の解剖開始」
ところで、自分の時代をはっきり見るためには(つまり現代を把握しようとするなら)、どこから見ればよいのだろうか。オルテガはこう答える。
1900年以降、労働者の生活は安定してきた。しかし彼らはそのために闘わなければいけなかった。一方平均人(≒大衆?)は、社会や国家にお膳立てされた豊かさをもっている。
このような状況で、生に対する印象が変わってくる。「生は新しき人間にあらゆる障害から自由な生として示されたのである」。このような自由さは過去の一般人にはまったく欠けていた。生はもはや重苦しい運命ではなくなった。
たしかに、物理的条件が上昇したことは疑いようがない。一般人の生に対する印象も全体としては安楽になったところがあるだろう。しかしこれは相当マクロ的に見た場合の話であり、あまり振り回すことはできない認識のように思う。第2次世界大戦、そして冷戦の後では、オルテガも意見を修正する気がする。
オルテガはこの障害のない生の要因として3つのことを挙げる。それは、自由主義的デモクラシー、科学実験、産業主義である。これらはみな、19世紀より前に発明されたが、実際にひろく導入されたのは19世紀である。
19世紀は本質的に革命の世紀だった。なにがそれまでと大きく異なるかと言えば、
19世紀以前にはこういった価値観が根底にあった。しかし、19世紀、そして20世紀にはこの抑圧が取っ払われ、むしろ無限に増大する欲求が発生したのだ。これは多くの優れた人間によって達成されたが、いまや自然と同じような当たり前のことになっているとオルテガは言う。
21世紀の今となっては様相は少し変わってきていると思うが、基本的な構造はここで言われている通りだろう。で、ひとまずこう結論付けられる。
これは子供の特徴であるとオルテガは言い、厳しく批判する。まぁたしかにその通りだ。耳が痛いような、それと同時に「そうだそうだ!」と共感するような、微妙な気持ちになるが、とにかくこれは新しい事態なのだ。
忘恩というとアレだが、実際21世紀の今となってはより一層様々なものが当たり前になっている。スマホ、テレビ(これもそろそろ寿命が近づいていそうだが)、電気、水洗トイレ、エレベーター、などなど……。
これだけ物質的条件が変われば、人間の生が根底から変化するのも当然と言えるだろう。
第7章 高貴なる生と凡俗な生、あるいは努力と無気力
(なんだか嫌な感じのタイトル笑)
一般人の生に対するスタンスが、18世紀以前と大きく変わってしまったということをみてきた。
巨大な権力者とか、神の前に首を垂れる気持ちを失った、ということだろうか。実際、(僕も含めて)引用のように感じている人が大半だと思う。これには当然、「人間は平等である」というデモクラシーのイデオロギーが関係しているだろう。
現代では、この傾向はさらに加速しているように感じる。たとえば、僕はときどき喫茶店でスマホゲームをしているサラリーマン風のおじさんを見かける。こういう風にとらえるのはそれこそ時代遅れなのかもしれないが、最初にそれを見たとき、「いい大人がスマホゲームか……」と僕は感じた。ゲームという、2流、あるいは3流の趣味を堂々とスーツ姿でしていることに軽く驚いた。もちろん僕もゲームは好きだけど(今の若者にゲームが嫌いな人なんているのだろうか?)、やはりどこか子供が遊ぶものというイメージがあった。
例として適切なのか微妙ではあるが、オルテガの言っていることと類似するところがあると思う。
では一般人ではない人間、つまり卓越した人間はどういう存在なのかというと、
だから、普通考えられているのとは逆に、「本質的な従属関係の中に生きているのは大衆ではなく選良の方なのだ」となる。
これは本当にその通りだと思う。カントの「自由」の概念は、好き放題することではなく、自ら立てた規範に従う自律性だというような話があったと思うが、それと同じだろう。内なる規範に従うこと、義務を自ら背負いこむこと、これこそが卓越した生だ。
そう考えると、たとえばラスコーリニコフやイワンのような「すべてが許されている」式の思考は大衆のものだとも言える。むしろ、ソーニャとかアリョーシャ的な大きなものへの信仰をもつほうが”高貴”だ、ということになりそうだ。と思ったが、前者のほうも「すべてが許されている」という規範を自ら立てているという点では、ここで言われている大衆と違うのかもしれない。
オルテガにとって「貴族」とは、単にその血統の高さということではなく、卓越したあり方の人という意味である。
というわけで逆に、「凡俗もしくは不活性な生」が、大衆を性格づけることになる。……なんだか辛くなってきた。なんで僕はこんな自分を刺してくるようなテキストを読んでいるのだろうか。
こうなるとオルテガの「貴族」はニーチェの「超人」概念とも接近してくる(もちろん同じものではないが)。数日前の記事で大谷翔平の名前を出したが、やはりここでも大谷の顔がぼんやりと浮かんでくる。「大谷=貴族」説、誕生。
大衆(平均人)と貴族の区別が大まかについたことで、現代(1930)の分析に入ることができるようになった。現代では、大衆のもつ力が以前の時代よりも格段に強くなっている。経済的にも、肉体的にも、衛生的にも、市民的にもそうである。それで、どうなったのだろうか?
オルテガが何を念頭に置いて「大衆」という言葉を使っているのかは定かではない。しかし少なくとも確かなことは、この「大衆」は社会的地位のことではなく、生き方に関係するということだ。
そしてオルテガ自身も注意を促しているが、これらの内容を安直に政治的意味合いで解釈することは控えなくてはいけない。たとえば、(当たり前だが)「不従順な大衆」は政権に反対する民衆を指しているわけではない。
オルテガは平均人について、「自己の内部に閉塞されている」などと形容しているが、このことはコロナ禍以降の現代社会ではよりリアリティのある問題なのではないか、と思った。
現代社会では(少なくとも日本では)、ネオリベ的価値観の浸透により、個人がバラバラにされていると言われる。たとえばこの千葉雅也の記事。
「自己と他者の境界が揺らぐような関係性をなしにしていこうというコロナ禍の空気(記事引用)」があるわけだ。
飲食店のパーテーション、(良くも悪くも)好きなものを好きなだけ見れるインターネット・SNS・ネットフリックス。現代が自分の内に籠りやすい時代であるのは間違いないだろう。オルテガの言いたいこととはズレるが、これも現代社会の重要な特徴のはずだ。
次回は第8章、「大衆はなぜ何にでも、しかも暴力的に首を突っ込むのか」に入っていく。