見出し画像

千葉雅也『ツイッター哲学 別の仕方で』①

まさーや(千葉雅也)はツイートが上手い。

非意味的な有限性、一四〇字以内。僕が考えている「有限性の哲学」とは、「非意味的な有限性の哲学」なのです。

p.9

「非意味的な有限性」とは、どうしようもないこと、否応なしに与えられる制約ということ。しかしこの一四〇字の制約も、今は課金をすることで取っ払えるようになってしまった。「別に一四〇字じゃなくてもいいじゃん」というのは、制約から自由になることであり、同時に儀礼を失うということでもあると思う。


「ゼロ年代」と呼ばれた時期のツイッターはもっと牧歌的で、アングラなものでした。状況が大きく変わったのは、震災と原発事故、3.11以後でしょう。社会的・政治的な発言が増加し、それを目的とした新たなユーザーも参入してきた。それ以後ツイッターは、「○○はどうあるべきか」について誰かが何かを言いすぎては「炎上」して批判が殺到し、また再批判が起こり、立場の違いが明確化されていく、という非常にストレスフルな空間になってしまった。民主的な政治空間になったのだからいいのだ、という見方もできます。が、僕は、社会のあちこちで分断が過剰に可視化されてしまったと感じています。

p.13

 とくに付け加えることもないが、なぜこのようなことになるのだろうか。ツイッターは(今はXだが)文字だけのメディアであるがゆえにロゴス中心になりやすい。ツイート主の顔は基本的に見えないし、仮にアイコンが本人の写真だとしてもリアルな<顔>ではない。そして「文字だけ」の対象は”冷たい”と感じやすいし、タイムラインに並べられることでそれは対象化・平均化される。そうすると、本来存在していた言語外の様々な要素が不可視化され、「正しいか間違っているか」といった狭い範囲内での「議論」が異常に大きなウェイトをもつようになる。それが「炎上」を発生させる一因になっているのではないだろうか。

 なんとなくだが、このインターネットでの「炎上」やそれに類する現象には、近代に特有の性質が強く表れていると感じる。遠くのものとつながること、匿名性、感情の動員、言葉の一人歩き、誰であっても一つのツイートでしかないという人々の水平化、などなど……。


 ではいよいよ本文(ツイート)の方に入っていこう。


◇テクスト解釈
虚実入り交じっているプロレスというのは、テクスト解釈のようである。逆にテクスト解釈はプロレスなのであって、ストイックなボクシングではない。

p.32

 たしかに、テクストを読むには文字通り読みつつ、文字通り受け取らないということが必要になる。たとえばメールのような文章で、「お世話になっております」と書いてあっても、本心でお世話になっていると思っているかどうかはわからない。一種の儀礼があるとも言える。

 儀礼関連でこんなのがある

◇儀礼
ブランドにお金を払うって不合理なことで、そこに人間の主体性の秘密がある。人間は、合理的選択だけをすればよく、まやかしのブランド的価値などいらない、というふうにはならない。僕はならないと思う。このことが、政治がなぜ超合理的にならないかといった問題とも関係する。核心は、儀礼性だ。

p.30

 ぼく的には核心は、権威(権力)性にあると思う。ブランドにお金を払うというのは、人より抜きんでること、あるいはせめて人と並び立つこと、目立つこと、自分の正当性を示すこと、総じて自分をアピールすることにある。それは経済的に不合理な選択であることは多いが、不条理ではない。


高架道路の下など、空きスペースがあるのに、デコボコした構造物をわざと設置して、ホームレスの人が寝られないようにしているの、ひじょうに心が痛む。人間が自然の空きスペースに「建築=家」を見出すという本性を否定している。あれは反建築そのものだ。人類史の否定に他ならない。

p.41

 人類史の否定かどうかは知らないけど、ろくでもない構造物であることは間違いない。ちょっと窪んでて一休みできる、そういう場所をなくす方向に現代都市は進んでいると思う。それはすべてを見えるようにし、管理できるようにするという管理社会化の進行とも言えるだろう。私たちの情報はGoogleや国に筒抜けで、その外部は年々無くなってきている気がする。この流れの中で、我々は何を手にし何を失っているのだろうか。


無限と有限
部屋に観葉植物があると認知能力が上がるというのは本当な気がする。それは「無限」に触れることなんじゃないかな。無限に複雑なもの。板の木目とかもそう。「その先がある」感じ。それが欲望を牽引する。だがまた、それは「区切られている」必要がある。無限と有限の必要性をペアで考える。

p.44

 ところで「無限に複雑なもの」の代表例といえば「他者」である。「欲望を牽引する」というのも本質的な話だと思う。

 だとすると「他者」がいると認知能力が上がるのだろうか。もしかしたらそうかもしれない。個人的な感想だけど、「他者がいない人」っている気がする。自分の理解の範囲内で他者の全てを推し測る人。

 ひとまずこのくらい。続きも書くかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?