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norinity1103
溢れ、戯れ、変化し、支配するコトバ
何かを考えるとき、映像や目の前起こる事象は言葉で整理されてる。
動画は1分間で180万文字分の情報量があると言われている。らしい。
(同時進行では、おそらく整理[消化]しきれてないけど)
言葉は考えるためのツールではなく、「考えている」そのものを支配する。
シニフィアンとシニフィエという言葉の差異によるフィルターを通してしか世界を見ること、認識、思考できない。
「幸せ」「生き方」「自分さがし」といった概念も、すべてその時々の言葉の秩序付け次第で変わる。
例えば「ペン」に関して子供たちに問いかける。
それは何をするか ⇒「書くモノです」
何を書くのか ⇒「言葉や図を描きます」
言葉や図はどこから来るのか⇒「考えた脳からです」
「ペン」は「思考を表現するモノ」に変わる。
ただそれも、共時態(言語の在り方を時間軸に沿ってとらえる状態、時間や歴史の流れによって、変化を見ること。「過去」⇒「現在」⇒「未来」で言葉は変わる)、通時態(ある言語の特定時点における状態、変化ではなく、固定的な構造を見ること。「東京と大阪」「日本と他国」で言葉は変わる)によって、常に変化している。
コトバが変われば、世界は変わる。