「なんとなく」でいいじゃないー本当の気持ちは深いところにあるのだから。
某日のこと。あるサブスクリプションサービスを解約した。サイトの流れに沿って手続きを終えると「解約理由を教えてください」というアンケートページが現れた。いくつか選択肢が並び、最後に自由記述欄がある。
うーむ。理由は…実はわからない。選択肢のなかにもない。
だけど自由記述欄に文章として書ける理由もない。
ただ、なんとなく、もう違うのだ。
解約したきっかけは「決済できませんでした」という案内が届いたことだった。一瞬「フィッシングメール?」と思ったが、サイトにログインして確認したら、クレジットカードの有効期限が切れていた。そういえば、こないだ、新しいクレジットカードが来ていたなあ。
財布の中から新しいクレジットカードをとりだす。「ここに新しいカードの番号と有効期限を入れればいいんだな…」と入力しようとしたところで、ふと手が止まった。
「あれ、このサービス、続けたいと思ってないよ..ね?、ワタシ」
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何事についても理由を明確に述べることが求められる時代だなあと思う。
何がよくて、何がダメなのか。どこがどうよくて、どこがどうダメなのか。こうすると、こういうことが起こりうるとか。ここまではわかっているけど、ここからはわからないとか。何故そうしたのか。そうすることで、何を望んでいるのか。
ああ、ややこしい。
時代がそんなふうに見えてしまうのは、私が「どうしてなの?ちゃんと理由を言ってごらん」と言われて育ったからかもしれない。私は自分の気持ちを語るのがうまくなかった。
理由を尋ねられると、余計に心を閉ざして黙り込んでしまうことも多かった。けれど、どうもそれでは自分に不利になることが見えてくると、一生懸命理由を説明したり、準備することを学んで行った。
ただ、ここには1つ落とし穴があった。「理由を説明」に囚われているうちに、「説明できないもの」を無自覚に結構置き去りにしていたことに気づいていなかったのだ。
「好き嫌い」「快/不快」というハラの感覚、皮膚感覚、動物的感覚、直感…まあ色々言い方はあるけれど、言語化できないものを無視したり、無視したふりをしていた。
が、最近になって思う。
なにかを「決める」瞬間に理由なんてわからない。本当の理由は、あとにならないと説明できないと。特に大事なことであればあるほど。
「決める」は何かに対する反応だ。
その反応のもろもろが動き、働いているのが潜在意識である。
潜在意識は普段は寡黙だ。深いところにある思いが、意識の上のほうにあがってきて、「ことば」という表現に変換されるまではそれなりに時間がかかる。
「理由はわからないけど、なんとなく」は潜在意識が決めている証拠だ。
例えてみれば、スマホ画面をタップしたあとで「次画面が表示される」まで、スマホやネットやサーバーやもろもろがバックグラウンドで働いているようなもの。「次画面が表示される」が「決める」という反応。
スマホやサーバーが潜在意識。「画面表示」という反応をひきおこすための情報処理が「理由の言語化」のプロセスだ。(専門家から見ると「違うよ」というところがあるかもしれないが、例え話として受け取って欲しい)
「理由を説明する」というのは「どういう情報処理をしたのか示す」というようなものなのだと思う。
なので、決定力の理由はすぐ言えなくていい。
たくさんのプロセスが、一気におきていて、それが順番に意識の上に上がってくるまで時間がかかるのだ。
最初は「なんとなく」でいいのだ。
この「なんとなく」でてきた決定力を「直感」ということもある。
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今回の解約理由も、数日後にふっとやってきた。
「もう、真似しなくていいってわかったから」だ。
そのサブスクのお気に入りコンテンツの1つに「お悩み相談」があった。共感にあふれた優しい筆致に背筋がすっと伸びるような落ち着いた視点は「読むセラピー」のようなもので、読むと気持ちがほんわりしたり、ふっと涙が溢れたりした。
この方が相手の心に寄り添い、本人の生きる力をガイドする力をナチュラルに持っていることを文章のなかから感じていた。この方がカウンセラー/心理セラピストだったらいいのに、とよく思った。そして心のどこかで「私もこんなふうにnoteやブログを書けるようになりたいな」と密かなあこがれを抱えていた。
けれど、薄ぼんやり「それはその人の個性」ということにも気づいていた。真似してできるようになるものでもないということに。
どことなく「理想の私」をその人のなかに見ていたと思う。同時にその方と比較して「今の自分」を随分と低く見積もって無意識のうちにダメ出ししていた。
私は、心優しい文章を書きたかった。読んでいる人が心温まるような、元気が出るような文章を書けるようになりたかった。この人のように。
でも、もうそんなことはしなくていいんだな。できないのだもの。無理してそういう文章を書こうとしなくていいことに薄々気づいていた。そんなしがみつきは、もう終わりにしよう。真似なくていい。私は、私のまま書いていくしかない。
これが潜在意識のなかでおきていた「解約理由」の詳細だ。
これがわかったとき、とてもスッキリした。なにがおきているのか心の端までくっきりと見えたような気分。実は解約した後、フッと心の中の風通しがよくなった気がしていた。それは私自身が、私自身らしくあることを許したからだということもわかった。
あー、やれやれ(笑)。
人様に「ありのままの自分にダメ出しする必要なんてないのよ〜」という話をしたがるのは、自分ができてないことの裏返しだなあとつくづく思う。
文章にはどうしても「その人」が現れてしまう。それはどうにも隠しようがない。真似しようもない。まあ、だから、しばらく「素のまま」で書いていくことになるのだろうなと思う。
なんだか私の「素のまま宣言」みたいになっているぞ。まあいいか。
というわけで、なにかと「理由」が求められる昨今だけれど、理由なんてもんは、その場ですぐにでてこないこともあるということは頭の片隅に入れておいていいと思う。
とはいえ、もちろん「理由を説明」したほうがより多くの人との理解や協力を得やすいこともある。では、「言葉にできない」とき、私たちはどうしたらいいのだろうか。それについては、またの機会に書いてみます。
今日も読んでくださってありがとうございます。
自分にやさしくお過ごしください。