一人の気持ち、一人のことばが、
永井玲衣
―チラシもらったのね。それまたすごいことですよね。綺麗なひとがね、和服姿だったんだけど、綺麗だったんです。あらあ、えらい綺麗なひとがなあ、来たんだなって。チラシをもらって、これ行ってみようっていうのがきっかけですよ。
坂下さんはのっそり、のっそりやってきた。杖をついて、緑色のマスクをして、するりとわたしの隣に座って、昨日あったできごとを話すみたいに、釜芸のことについて語りだした。
名前の知らない葉っぱが生い茂るジャングルのような庭の奥にある小部屋で、わたしたちはであった。「ここを対談部屋にしてるの」とココルーム代表の假奈代さんは、摘んできた葉っぱでつくったお茶を淹れながら言う。壁にはびっしりと、これまで假奈代さんらがつくってきたフリーペーパーやこれまでの釜芸のカリキュラム、その他よくわからない何かがびっしりと貼られていて、釜芸やそれに連なる活動がたどってきた歴史が、わあわあと叫んでいるようだった。
―当時2011年くらいから、その商店街の音がね、ちょっと変わったような気がしてたのね、わたし。音が変わるっていうのは、威勢のよい足音とか、怒鳴り声とか、そういう声じゃなくなっていって、何かこう、ゆっくり、ゆっくりの音になっていく。
…もしかしたらこれまでみたいに、この喫茶店に、カマン!メディアセンターに、このまちのひとたちが来てくれなくなるんじゃないかって気がしてきて。
假奈代さんの耳に、音がとどく。
歩行器の音、よたよたの音。
そうして、おじさんたちの住まいの場へ、假奈代さんたちは出向いていく。機会がめぐりあい、あいりんセンターそばの市営住宅の空きスペースを活用した場で、「まちでつながる」を冠した9ヶ月の講座を三徳寮の共催でひらくことになる。そこに通りがかったのが、釜芸がつくられるきっかけの一人となった、坂下さんだった。「綺麗なひと」からチラシを受け取って、坂下さんはそれから9ヶ月の講座すべてに出席した。
―でね、坂下さんおぼえてる?ちょうど断酒をはじめたばっかりだったんだよね。
―うん、アルコール依存症ですから、やめなあかんという病院に行ってましたから。まあ、それでも飲みたいですわね。
何回か失敗してね。
―ところがその9ヶ月、断酒頑張れてたんですよね。
お酒をやめるっていうのは、薬でやめるんじゃなくてね、人生の楽しみがないとね、やめられないんだ、みたいなことを坂下さんが言うわけ。
偶然のであいと、偶然のことばが坂下さんからこぼれる。
それがしみこんでいく。
釜芸はまだできていない。
当時の「まちでつながる」は9ヶ月間といっても、月一回しかひらかれていなかった。また、ことばが坂下さんからこぼれる。
―来月、生きとるか死んどるのか、わからんのや。
こうして、「釜ヶ崎芸術大学」ははじまった。
坂下さんだけじゃなく、たくさんのであいのことばによって、釜芸はかたちづくられていった。講座は頻度も増え、釜ヶ崎のおじさんたちの生活のリズムになるように組まれた。
詩、天文学、哲学、ガムラン、狂言、合唱、とにかくさまざまな講座があった。坂下さんは、互いの話をききあいながらつくる詩の時間が好きだった。
―やっぱりその、若いひととね、年寄が一緒に喋るということですよね。
それはすごいことなんですよ。…かわいい20歳の大学生と、70のよれよれの老人がね、あの世に片足つっこんでるひとが、詩をつくるんだから。
女の子ね、笑って、笑ってね、帰るわけよ。
あのおっさんどうしてるかね、いまごろって。
それがいいんですよ。
年齢が離れているっていうのは、おもろい。
いろいろなところに行った。
八戸にも行った。
假奈代さんと坂下さんで、イタコに会いに行ったという。
お金はない。
助成金を申請した。
社会のため、地域のためと書くのではなく、たった一人という人に焦点をあてたときに、捉えられるものがあるのではないかと、假奈代さんは書いた。そしてそれがなぜか通った。通したのはアサヒビールだった。
―僕はアサヒビール大好きやったからね、アサヒスーパードライ最近でも飲みたいと思うからね、1回くらいは。
そうか、アサヒビール協賛ですか。
じゃあもうちょっと飲まなあかんね。
釜芸の狂言に出た坂下さんは、「現実世界では飲めないけれど、舞台の上ではなんぼでも飲める」と踊りながら扇で浴びるようにお酒を飲んだらしい。「舞台を降りたらもう、飲みますまい」と締めくくったと教えてくれた。
そんな彼に助成金を出してくれたのはアサヒビールだった。
これもまた必然のようで、おもろい偶然なのである。
坂下さんは釜芸の一期生だと假奈代さんは言う。
段ボールを座布団のように敷いて、その段ボールにメモを取っていたおじさん、2,3年かけてようやく最後まで詩の講座に参加してくれたおじさん、詩の発表のときに、窓の方をむいて読み上げたおじさん、みんなを困らせ、なんで釜芸に来るのかと問われて「コミュニケーションを学びにきた」と答えるおじさん。
ふしぎで、ままならなくて、おもろいひとたちがたくさんいた。
だが、だんだん、だんだん、そのひとたちはいなくなっていく。
会えなくなっていく。
一人、また一人と、ひっそり姿を消していく。
午後、假奈代さんがココルームが制作した映画を見せてくれた。
坂下さんもそこにいた。
なぜだかゴキブリの話をしていた。
今より少し若かった。おじさんたちが、たくさんうつっている。
みなそれぞれの目をしている。
假奈代さんは動画を見ながら、ことばをこぼす。
―みんな、死んだなあ。死んだわあ。
10年目を迎えた釜芸。
初期につどっていたひとたちで、残ったのは坂下さんだけだ。
最近はもう、坂下さんもあまり釜芸には来ていないらしい。
―隠居の身やなと思って。
―いや、でも卒業しなくていいのよ。
―うん、卒業できないんやから。
…ここは試験もないんだから。入学試験もないしね。
で、授業料もいらない。
はっきり言うたら。
ある人は寄付したらいいんだろうけど。
こんなところ、どこ探してもないもんね。
假奈代さんは、卒業しなくていいと言った。
それを聞いた坂下さんは笑った。
卒業できない大学、釜芸。
入学試験もない。
卒業もない。
単位もない。
はちゃめちゃな校歌はある。
釜芸は、つまづきよろめきながらも、解体となったあいりん労働福祉センター跡地にアーツセンターをつくる構想に向けてすすんでいる。
―そうねもし、このまちのひとたちがまだ、体が動くのであれば、多分物作りはとても得意だと思うから。
そしたらそういうもの作りをね、若い人たちだったり、子どもとも一緒にできるだろうし。
…その隣の労働施設なんだけれども、そこに外国のひとたちもいらっしゃるといったときに、日本語を覚えるとか、それだけじゃなくって、自分たちの文化とかを私たちと一緒にね、体験したりわかちあったりとか、一緒にコミュニケーション取るような場を作ることで、何とかここで働くことが苦にならないように、ここの場所で生活することが、息苦しくないようなこととかも作れたらいいなと思うし…。
假奈代さんが、ことばを探しながら、釜ヶ崎アーツセンターの構想を描く。いいと思う、いいと思う、と坂下さんは繰り返す。
―あと10年生きなあかんですよ。
88歳まで頑張らなあかんね。
あと10年頑張らなあかん。
そしたらねえ、だいたい目鼻つくでしょ。
みんなおばあちゃんになってるわけやけども。
みんな歳とるわ。
一人だけじゃないもんね、歳とるのは。
みんな歳とる。
それだけ不思議なことないわ。
つくったほうがいい。
坂下さんは断言した。
生徒100人集めれば大学じゃない、一人集めても大学なんだから。
生徒は一人でもいいから、それやらなあかんですよ。
そのことばが、釜芸をかたちづくったように、アーツセンター構想をかたちづくる。
―釜芸にもうひとつ背骨を入れるのはね、そのあいりんアーツセンターやと思う。それで釜芸と行き来できると。
だから大学はキャンパスがいっぱいあるでしょ。
向こうをキャンパスにすればいいんです。
―もともと釜芸って、まちを大学に見立てるってことだからね。
―だから僕はパリにしようと言うたでしょ。
…セーヌ川どこか。木津川のあたり。
シャンゼリゼどこか。
なんばのあたり。
それでいいわけです。
中心がどこかっていったら、ここなんです。
中心なんです、ここは、大阪の。
ええとこにあんた、キャンパス持ってる。
釜芸はこの10年で、1万人以上の学生証を発行してきた。
たった一回でも、釜芸の講座に出れば、学生証をもらえる。
小さいけれども、きちんとした学生証で、わたしの財布にも仕舞われている。
卒業がない釜芸だから、わたしにも坂下さんにも、同級生が1万人いることになる。
だが坂下さんは、一人だけでも大学だと繰り返し強調する。
そのことばが、ふしぎな偶然の連なりの中で、八戸へとイタコへ会いに行ったふたりの旅へとつながる。
そう、あのときも、たった一人のために假奈代さんは書類を書いたのだった。
その一人のことばがまた、釜芸をかたちづくって、重なって、また動いていく。だから假奈代さんは、思わずことばを落とした。
―でも一人の気持ち、一人のことばが、こうやって1万人のであいを生んだっていうのが…たまらんなあ。
ふたりと話した次の日、釜ヶ崎の慰霊祭があった。
その年に亡くなったひとの名前が読み上げられる。
一人、また一人と去っていく。釜ヶ崎というまちだけでなく、わたしたちの周りにも、うっすらとまとわりつく死の気配がある。
だが同じように、であいもある。わかりにくく、あたふたとしためちゃくちゃな場に、たくさんのことばが重ねられていく。
ことばは高く積み上がっていくというよりは、よりその場にしみとおっていく。
水がすみずみまで土にしみとおるように、ことばが奥へ、奥へと入り込んでいく。
ほな、と坂下さんは帰っていった。
東京からふらりときたわたしが、たまたま坂下さんと假奈代さんの話をきいた。本当にたまたま、きいてしまった。
三人で話した小部屋が、その晩のわたしの寝床になった。ことばの中でわたしは眠った。
わたしたちはみな歳をとる。
釜芸もまた歳をとる。
ことばが重なり、重くなり、また奥へ、奥へとしみこんでいく。
現在、ココルームはピンチに直面しています。ゲストハウスとカフェのふりをして、であいと表現の場を開いてきましたが、活動の経営基盤の宿泊業はほぼキャンセル。カフェのお客さんもぐんと減って95%の減収です。こえとことばとこころの部屋を開きつづけたい。お気持ち、サポートをお願いしています