私的プロレススーパースター烈伝⑬ハルク・ホーガン
今回は「アメリカン・プロレス界の顔」的な存在であり、スポーツ・エンターテイメントを体現したプロレスラーとして業界全体に多大な影響を与えたハルク・ホーガン選手のご紹介です。
ハルク・ホーガンとは、2m・140kg級の巨体から繰り出すパワーと、観客の心を掴む卓越したパフォーマンスのスキルを活かし、ベビーフェイスとしてもヒールとしても頂点を極めた、アメリカンプロレスを代表する選手です。
デビュー前はヒロ・マツダさんの門下でトレーニングを積み、1977年にデビュー。1979年12月、WWF(現・WWE)に初登場、ビンス・マクマホン・シニアの提案でハルク・ホーガンとリングネームを改め、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおけるデビュー戦でテッド・デビアスに勝利を収めます。
以後、フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、アンドレ・ザ・ジャイアントの巨体に対抗できる超大型のヒールとしてトップ戦線で活躍。デビュー戦から20数連勝という戦績を残したことから「マディソン・スクエア・ガーデンの奇跡」と評され、その名を全米に知らしめました。
1980年から1983年にかけて、日本では当時WWFと提携していた新日本プロレスを主戦場にします。この当時なんといっても有名なのは、1983年に開催された「IWGP決勝リーグ戦」にはアメリカ代表として参加し、6月2日に蔵前国技館で行われた決勝戦では猪木さんをアックスボンバーでKOして優勝を果たした「事件」でしょう。
また、右手人差し指を高々と上げ「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズも話題になり、リングコスチュームも黒のショートパンツに白字で「一番」と書いたものにし、「一番」と書かれたタンクトップやTシャツ、ハッピも発売されました。今でいうプロレスグッズの走りですね。以降 "ICHIBAN" はNo.1を意味する語としてアメリカでも有名な日本語の1つとなりました。
1983年12月、ビンス・マクマホン・ジュニアにWWF全米進出計画のエースとして白羽の矢を立てられ、日本滞在中にWWFと専属契約を交わします。
1984年1月23日、MSGにおいてアイアン・シークを下しWWF世界ヘビー級王座初戴冠。2月10日にはNWAの総本山だったセントルイスのキール・オーディトリアムにて、マスクド・スーパースターを相手に初防衛に成功。
以降、同年より開始された全米侵攻サーキットにおいて、ポール・オーンドーフ、ビッグ・ジョン・スタッド、デビッド・シュルツ、ロディ・パイパー、カウボーイ・ボブ・オートンら強豪との防衛戦が各地で行われました。
シンディ・ローパーらと共にMTVに出演するようになると、その圧倒的なカリスマ性と単純だが分かり易い試合でプロレスファン以外の層にまで人気が爆発していき、1985年3月31日にレッスルマニアの第1回大会が開催されて以降は社会現象と呼べるほどの国民的人気を獲得しました。
WCWに移ってからはハリウッド・ハルク・ホーガン(Hollywood Hulk Hogan)を名乗り、ヒールに転向。これによってホーガンは選手としてのキャリアのリセットにも成功し、またnWoの大ヒットでWCWはWWFの人気を上回るようになっていきます。ヒールサイドの主役として活躍し、WCW世界ヘビー級王座も何度となく獲得して隆盛を極めます。
WCW崩壊後はWWEに復帰しますが、何度かの決裂→復帰を繰り返し、2019年時点では、時々PPVにも姿を見せています。