[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝#89 冬木弘道
国際プロレス入門
今回はWARやFMWで理不尽大王として活躍された冬木弘道選手のお話しです。
冬木選手は、国際プロレス入門時は特に格闘技や運動経験もなく、一ファンとして国際の試合が開催されていた後楽園ホールで、吉原功代表に押しかけ同然で行き、吉原さんに「体つきを見て運動経験がない」とスポーツ経験がないことを見破られたものの、嘆願して入門を果たしています。
冬木さんは国際崩壊後、全日本プロレスへ移籍します。全日本プロレスに移籍後冬木さんは、天龍源一郎さんの付き人を務めました。この時期、同じ若手だった三沢光晴さんとは仲が良かったといいます。
1984年11月に海外初遠征。1985年12月の帰国後、ジャイアント馬場さんの命名によりサムソン冬木に改名します。
天龍同盟から
1987年3月に再び海外遠征し、帰国後、天龍同盟に参加します。天龍同盟では、川田利明選手とのコンビ「フットルース」を結成し、アジアタッグ戦線で活躍しました。
1990年に天龍さんらと共に全日本を離脱し、SWSの旗揚げに参加します。SWS崩壊後に天龍が興したWARに参加した際、リングネームを本名に戻しました。
1994年頃からWAR正規軍と敵対する反体制側に回り、冬木軍として邪道、外道選手とのトリオで活躍します。この当時、冬木さんは理不尽大王を自称し、リング上でコントを披露するなど愛嬌のあるヒールとしてのイメージを定着させました。
1996年10月を最後にWARを離脱し、冬木軍プロモーションを設立します。
新世代ヒールとして
また、FMWに再参戦し、FMW正規軍を苦しめる反面、ユニット「ブリーフブラザーズ」を結成し、白のバスローブに白いブリーフ姿でコントを披露します。
TNR解散後もECW JAPAN軍を率いて活躍し、一方でFMWのコミッショナーに就任するなどリング内外で団体を牛耳るパフォーマンスは、リング上に留まらない新世代のヒールスタイルとも言われました。2002年2月のFMW経営破綻後、3月に自ら主宰する団体としてWEWを設立し、5月に川崎球場で旗揚げ戦を開催することを発表しました。
しかし、2002年4月7日、プロレスリング・ノア有明コロシアム大会で15年ぶりに三沢選手とシングル戦を行い、正統派のプロレスでも改めて高い技術を見せました。
その2日後、後楽園ホールでの冬木軍主催興行の試合後に大腸がんを理由に、控室で引退表明を行います。
三沢さんとの友情
試合前にWEWがまだ立ち上がっていない冬木さんのために、三沢さんは、4月14日にたまたま日程が空いていたディファ有明の会場をすぐさま確保し、ノア主催による冬木の引退興行を開催することを発表したのです。
ノアは6日間で興行実施の手筈を整え、ノア及び三沢さんの全面協力を受けて、冬木はディファ有明において引退試合を行い、22年間の現役生活に終止符を打ちました。
冬木さん引退試合のためにノアは、来場するファンに向けて黄色の紙テープを持参するように呼び掛け、試合開始前の「冬木弘道」コール後、無数の紙テープが飛びました。なお、10カウントゴングはWEW旗揚げ戦で行う為、この日は行われていません。
興行の収益金はノアから全て冬木さんに贈られた。当日はノアの内外から多くのレスラーが来場・参戦しました。
WEW旗揚げ
冬木さんは引退試合後に入院し緊急手術を受けた後、5月5日に川崎球場でWEWの旗揚げ戦を行い、WEWではプロデューサーとして活躍します。
この時点でがんは既に肝臓などにも転移しており、2003年3月19日、がん性腹膜炎のため、横浜市民病院でお亡くなりになられました。42歳でした。
この時点でがんは既に肝臓などにも転移しており、2003年3月19日、がん性腹膜炎のため、横浜市民病院でお亡くなりになられました。42歳でした。
冬木さんは2003年5月5日の川崎球場大会で一夜のみ復帰し、橋本真也選手と電流爆破マッチを行う予定でした。
叶わなかった対戦
冬木さんは亡くなる8日前の3月11日、病院から外出許可を貰い、モルヒネを打って橋本さんに直談判をして対戦を約束し、お互いに握手をして別れました。
この時の冬木さんは終始汗が止まらず、顔色も悪く既に末期的症状であったといいます。予定通り行われた川崎球場大会では、橋本選手は金村キンタロー選手と電流爆破マッチを行いました。橋本選手は試合前に対戦の約束を果たすかのように冬木さんの遺骨を抱え、自ら電流爆破に身を投じました。