[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝#67 天龍源一郎
今回は、65歳まで第一線で活躍し続け、日本のプロレス界において「生ける伝説」として一目置かれる存在であった、天龍源一郎選手のお話です。
1963年12月、大相撲・二所ノ関部屋に入門。「天龍」の四股名で1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上り詰めます。
1975年に師匠の死去に端を発する部屋の後継問題(押尾川事件)に巻き込まれ、ジャイアント馬場さんを紹介され、プロレス転向を決意。1976年10月全日本プロレスへ入団しました。
入団と共に渡米しザ・ファンクスのもとで修行、1976年11月13日にテキサス州にてテッド・デビアス戦でデビューします。
日本デビューは1977年6月11日、東京・世田谷区体育館における馬場と組んでのマリオ・ミラノ&メヒコ・グランデ戦で、初陣を白星で飾っています。
デビューからは、紫のタイツを使用していましたが、1982年秋頃からタイツを紫から黒へ、そして黒と黄のリングシューズという、引退まで続いた天龍スタイルへと変更します。
ジャンボ鶴田さんと並ぶ次期ダブルエースの座を確立し、1983年の世界最強タッグ決定リーグ戦では、鶴龍コンビを結成してリーグ戦に挑み、11月30日の馬場&ドリー・ファンク・ジュニア戦では「馬場さんの生涯最後の32文人間ロケット砲」を受けています。
シングル戦でも頭角を見せ、1984年2月にはリッキー・スティムボート選手との王座決定戦に勝利しUNヘビー級王座のタイトルを獲得します。
さらに1984年9月からの長州力率いるジャパンプロレスの全日参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田との鶴龍コンビで長州&谷津嘉章と抗争を繰り広げました。
1986年10月2日、阿修羅・原選手とシングル戦で引き分けたことを契機に、長州離脱後には全日本マットの活性化を目指して龍原砲を結成。「最終目標は新日マット参戦」と掲げ、REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマにした天龍同盟の闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになりました。
特に鶴田さんとのシングル対決は、鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てました。
1989年6月には鶴田さんとのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となりました。1990年、横浜文化体育館大会において鶴田さんとのシングルマッチに敗れたのを最後に、全日本を離脱しSWSに移籍しました。
SWS解散後は、WARを立ち上げます。新日本との団体対抗戦で、大きな注目をあびました。中でも、1994年1月4日の東京ドーム大会でアントニオ猪木さんにピンフォール勝ちを収め、これにより「馬場、猪木の双方からピンフォール勝ちを収めた唯一の日本人レスラー」と呼ばれることとなりました。
その後、全日本Uターン、ハッスル参戦を経て、天龍プロジェクトをたちあげます。そして2015年2月9日、記者会見を開き「11月を以てプロレスラーを廃業し、現役を引退する」ことを表明。オカダ・カズチカ選手を相手に引退試合を行い、現役を退きました。