古代にふれての想い
先日、ケルンにあるローマ・ゲルマン博物館を夫と一緒に訪ねました。
ケルンは、英名ではColonge。
名前の所以は、この町が、約2000年前の昔、ローマ帝国の植民地・Colonyだったからだと。
博物館では、その時代の遺跡から発掘されたアクセサリー、ガラス容器などを中心に観てみました。
2000年という時の隔たりがあるにもかかわらず、当時の人々の美的感覚にとても親しみを感じました。
たとえば、こんな優雅なイヤリング。
小さな石やパールが耳元に揺れるなんて、なんて素敵でしょう♬
ネックレスも様々なデザインのものがありました。
どれも、装う女性の雰囲気や好みに合わせて創られたのだろうな、と想像するのも楽しかったです。
子どものころからガラスという素材がとても好きなんですが、目の前にあるのものは、大昔のものと思うと、ますます目を見張ってしまいました。
右側にあるぽってりとしたかわいいらしいグラスをアップで。↓
こんな ↓ 容器の
補色に近い色の組合わせ
ドットの形と大きさ、それぞれの間隔
口の開き具合と容器の高さ
に目を向けると、絶妙な釣り合いを感じ、からだが納得してしっくりする感覚がうまれてきます。
絵の構図には黄金律というものがあるそうですが、それに似たものがここにはありそうだなとも思いました。
昔の人々もそのように受けとめたのでは、と想いを馳せると、彼らをとても近くに感じました。
そして、こちらは墓からの出土品です。
どっしりとした石の骨壺と並んで、
軟膏用瓶
陶器のぐい呑みセット
さらには、二枚の硬貨がありました。 (手前左側)
「死者が、三途の川の渡り賃として船頭に支払うための硬貨」
との説明があり、ローマ帝国が栄えたその昔にも、死者にお金を持たせたことに驚きを感じました。
20年ほど前に父が亡くなった時にも、硬貨を棺桶に納めたことを思い出したからです。
やはり、人の心の奥深くには、
時を超え、文化圏・空間を超えて普遍的に潜在する集合的無意識
があるのだろう、と思ったのです。
父の葬儀の前に、母方の叔父が語ってくれたことも蘇ってきました。
Reikoな、おじいちゃん(叔父の父親)のお葬式の後にな、持たせたお金が少なすぎたんじゃないかと、うんと悔やまれただわ。
叔父の父親を想う気もちが、切ないほど伝わってきたのでした。
そんなことを思い出しながら、シンボルとしての「川」の深さにもあらためて感慨をおぼえたのです。
人は一生を通じて、変容しながら生きるのだと思います。
こうなりたいという自らの姿を向こう岸に見ながら、時には、
急流の川
幅広い川
深い川
など、いくつもの川を越えて、自分の意思で向こう岸へと渡りながら、人として育ってゆくのでしょう。
そして、最期を迎えたのちの川は、硬貨に込められた故人を送る人々の慈しみの想いが渡らせてくれるのでは。。。
そこには、太古の昔も今も変わらない人の深い気もちがあるようです。
きっと、ずっと先の未来もそうあり続けることでしょう。
Reiko