“ライフライン“ カタカナ英語が与える危険
“ ライフライン “ 誰でも分かると思う。子供の時から日本語のように浸透して聞いている言葉だと思う。そして、ちゃんと意味や概念を理解しているだろう。
しかし、カタカナ英語になることで、奥深くに内包されている真理が見出せなくなっている。何となく学術的にとかビジネスっぽく『ライフラインとは、水道、電気、ガスなど生活に必要なインフラを指す。』と、言ったように表面的な意味で捉えてしまう。
そこにさらに“インフラ”である。では、『インフラとは、infrastructureであり、生活や産業活動の基礎となっている施設。』と、いう解釈になるでしょうか。
ここでの言い回しや解説は人それぞれであるので、学校で聞いたのとは違うとか、そういうのはご遠慮いただきたい。
さて、これらの本来の意味は、何だろうか。全ての意味を日本語で書いてみる。『現代の生活で生存に必要なものは、水道、電気、ガスなどが基本的である。それを税金で賄い整備し公に供給する。』元々は、そういう意味合いだったのではないでしょうか。
🐉 本来は、誰もが苦しまずに済むように。
だからこそ、自然すらも税金の対象であり個人の自由にはならない。仕方ないということだったのではないだろうか。
しかし、本当に誰も苦しまないようになっているでしょうか。
カタカナ英語が日本語の補足や短縮語などとして浸透しているため、非常に便利です。しかし、このように重要な情報が含まれているのに、見逃すことに繋がる危険性があります。
ちなみに意味を内包しないものは、特定のものを示すものの場合ですが、名称=NAME=ネームなだけなのでそれほど気にしてはいません。中には名前にも意味の力などを持っていることがありますので、一概ではありません。
ここに登場している、ガスなどは、わざわざ瓦斯と表記してもむしろ読めない人が多くなっている可能性もありますので、あえて伝える意義を考えてカタカナにしています。
現代の生活においては、命の源である “ 水道、電気、ガス ” が、何とも軽々しくなっているとは思いませんか。まるで金儲けのために国家にコントロールされているように思いませんか。
日本語の持つ意味を薄めると、こういう危険が起こるのです。
🐉 それら命の源は、本来人々のものです。
🐉 税金で作り上げた、みんなのものです。
🐉 国から与えられたものではありません。
🐉 安心して暮らすためにみんなで作ったものです。
そのみんなで作ったものを、『お金のない人には、死んでも構わないから使わせない。』そんな風に考えている人は、どなたか居ますか?
日本は、王政だったでしょうか。まるで国王から与えれているといったような感覚ではないですか。
タイトルにあるように、カタカタ英語は危険を及ぼしている面があります。全てではありませんよ。ビジネスシーンでも多用されています。それがもとで、意味が分かり辛い場合が多々あります。何でもかんでも使う方がいますが、むしろマイナスだと思った方が良いでしょう。
欧米人と一緒の仕事だったりする場合は、両方の言葉が使われるます。そんな場面では、例えば通訳者ほど、カタカナ英語は極力使わず日本語を使う傾向にあります。むしろ日本語しか使えない人こそ、カタカナ英語の多用が見られて、言葉の意味が崩れていたりします。もっと言えば、日本語を学習している欧米人の方が、日本語だけで話す努力をしたりしていて、日本語は素晴らしいと言う方も多いです。
このような経験からも、自分は “ 格好良い “ からとかそんなどうしようもない理由ではなく、大切な物事ほど、日本語に注力して話したり書いたりするよう心掛けています。
誤解されないように重要なことを書きますが、普段のことで概ね伝わればいいということは、簡略にするためカタカナ英語もバンバン使いますよ。
日本語とは何か?
🐉 日本語を話す人は、日本人である。
🐉 日本語を話す人がいる限り、日本は無くならない。
🐉 土地や場所ではなく、日本語が使われ続けることが、未来へつながる。
自分は、そんな風に考えています。
今回は、ライフラインを例にとったわけですが、それだけでもこのような内容を書けるほど言葉の意味や力は重要です。だから、日本語を大切なものだと考えながら暮らしたいと思います。
⚠️ 注意 ⚠️
言葉は常に変化します。時代や時期ごとに変化し一定ではありません。今の日本語も例えばほんの200年前とは結構違うでしょう。だから、古い言葉が正しいと一辺倒に言っているのではありません。
ある意味では、女子高生あたりが話す言葉が今の時代の ” 生きた日本語 ” と言えるでしょう。ただ、コロナ禍となって、学生に勢いはなく、時代が遡っているようには感じます。そういう意味では、ここ数年の生きた言葉としては、30代、40代が発している言葉かもしれません。これは日本語に限ったことではなく、世界中なのかもしれないです。