あの食事も、この食事も全部私の元気の源だった。#元気をもらったあの食事
人生ってドラマみたいだなと 最近しみじみと感じています。
そりゃそうか。ドラマって誰かの人生を描いているものだから、そりゃ劇的な出来事、劇的事件が描かれていて、むしろそこがクローズアップされるもの。誰の人生だってドラマみたいな出来事があって、きっとそういうものなのかもしれません。
私も、そんなドラマのような滑稽な出来事に出会い、それは今までの出来事とは違い、消化不良で治りが悪い傷のように時々触っては、痒くなるような日々を過ごしていました。それは私にある日、思いもよらぬ情報を告げた訪問客。パンッと目の前で手を叩かれて、驚かされて、え?っていう友人のヘンなリーク情報。分析したり、いろんな角度から眺めたが、それはもうやめてほしいと思えてしまう内容で、その後立ち居振る舞いがわからず蓋をしたまま過ごしています。誰だって世の中は自分のみたいように見たい。私はいいように見たい派です。だからそう見られないことに動揺して、自分の過ごした時間を振り返ると空いやら、切ないやら。誰でもwelcomeで過ごしがちで、そんな自分が嫌になるやら呆れるやら・・・。その時から一年半たった今でも、触れると痛痒くなってしまいます。
そんな中、noteで募集されている「#元気をもらったあの食事」という募集をみて、思わず反応して「元気をもらったあの食事」をいくつも思い出しました。結構たくさんあって嬉しくなってくる企画。「時を想う」って最高。そんなことを考え、このnote企画に参加させていただくことにします。
「元気をもらった食事」
私の体と心の健康は「元気をもらったあの食事」でバランスを保っています。その食卓を囲んだ人や場面を思い出したら嬉しくなって泣けてくる感じさえします。情緒大丈夫?と思われそうですが、これは弱っている涙ではなくて「愛しい」という気持ちの感謝の涙です。
まず、私の特徴は、「食事を食卓に並べる」ことがかなり好きなこと。
何を作ろうかと妄想し、誰と食べようかと考えるだけでかなり楽しい時間を送ることができます。特に食事を囲み、食べる直前の瞬間がものすごく好きです。いろんなバリエーションで料理をすることも好き。食材をただ眺めるのも大好きです。
それもあり、一度社会人になってから退職してまでイタリア留学に向かい、料理やお菓子を習いにいくほどの熱量がありました。そこでは更に食に対する「AMORE」が増し増しになりました。ただ、私は食事を作り過ぎて、それに加え「食べて食べて妖怪」になってしまいがち。やりすぎには気をつけようと日々思っています。
食事愛は学生時代にも培われました。大学時代は4年間キャンプ場で食事を作るボランティアをして、大鍋での料理作り、大きなしゃもじ、3時間くらいの唐揚げ作業、その後さらに甘酢で味つけをしたりして汗だくの思い出も #元気をもらったあの食事 だらけの時間です。
そんな食事の時間に対して執着があるので、テーブルを囲んで一緒に時間を過ごした人のことを、忘れたり嫌いになったりすることが苦手です。たとえ関係が終了してしまっても、その場所やその料理に責任はないし、暖かい湯気が立ち昇るそれらが私の中に残っていると、それはどうしてもいい思い出となります。
ここ最近では、コロナ禍で「ちょっとした雑談」に飢えていた時、有難いことに昔の育児仲間との再会がありました。広い芝生で子連れで集まり少し離れて食事をしたり、子どもたちは思春期になっていて、ひたすらに走っていました。出産後に育児を共にした友人と再会の時間で、子どもの数が多いので、パンやカステラ、ドーナツやスコーン色々作り甲斐があり、それらを頬張る子どもたちを見ているだけでほっこりする時間を過ごしました。
そこにはコロナ禍というのに、「元気をもらったあの食事」で溢れていました。
私の子育ての歴史を振り返ると、ワンオペのおかげとも言える時間が多くありました。平成の子育ては、男女分業が主流(うちだけかも?!)。夫は仕事や飲み会で帰りが遅くなることが多く、その裏メニューとして「子連れ同士で集まって食卓を囲む」機会が多くありました。同じ境遇の友達とポツポツと不満を言いつつも、友人と子連れで会う時間を思い切り過ごせたのだと思います。
イクメンという言葉もなく、コロナもなかった時代です。
家や食事に招かれたり、招いたりすることが盛んに行われ、子どもたちはまとめてお風呂に入り、腹巻をして歯磨きをして解散する夜が多くありました。その度に育児で疲れきっていたとたとしても、些細な出来事を面白おかしくシェアして、元気をもらって癒されたことを思い出します。そして、一緒に「ママが元気でいなくちゃね」と励まし合い、食事を頬張りました。
子どもを産むと、今までじっくり話すことがなかったタイプの人と出会い、新しい自分にも出会います。子育てという共通点があったから、同じようなことで悩み、食事を振る舞い合うことが多くありました。
私は、心と実際の家の門を開けて「どうぞ中にお入りください」と招き入れます。そんな性格ゆえに多くの体験をさせてもらったように思います。子連れで集まり、子どもたちがおもちゃで遊ぶ中、ダイニングではママたちが子どもに見つかったら取られてしまうと、こっそりと平らげる甘いお菓子。チョコレートを見つけた子どもに、「これはカライカライ!」なんて言ってのけ、子どもに興味を持たれまいと必死なその大人気のなさを思い出すと滑稽で笑ってしまいます。
デリバリーの料理、持ち寄った料理、素材を切ったり焼いただけのものなど、子どもに食べさせて満足な表情にみんなで安堵し、自分たちも楽しむ時間。様々なバリエーションの食べ物を取り囲んで食事そんなことをどれだけ繰り返していたことでしょう。時々は門を開けてどなたも招き入れることにより、火傷や失敗をしたこともあったけれど、全体的にはとてもいい時間だったと思います。あれだけ門扉を広げることができたのも、「子育て」というステージにいたからかなと思います。
人生には、いろんなドラマがあって、色々な別れと出会いで溢れているものだろうと思います。多くの人と食事を共にしながら育児をし、そうこうしているうちに、上の子どもが来年には成人する年齢に成長しました。そして、自分も親も歳をとり、その関係ですることが増えました。
子育て仲間との交流は少なくなったけど、それでも当時から知る友人と住む場所が離れても食事を楽しんだり、子どもたちが幼馴染同士で遊んだりしています。
時間が経つと、食卓を囲む時間は特別な「一期一会」の時間だと改めて感じます。同じメンバーでも会話やその時の気持ちはいつも違うもので、テーブルを囲む顔も同じ日はありません。そんな時、「諸行無常」という言葉を思い出します。
子どもたちが成長するにつれ、親は自由な時間が増え新しいことに挑戦する時間ができました。ランゲージアーツ(言語技術)の勉強、podcastを聴くこと、読書も至福の時間になっています。以前より門扉は閉ざされ多く招くことはなくなりましたが、深く話せる友人が増えて、充実した時間を過ごせています。
そんなことを振り返る機会になったのもその友人のリークがあったで、この機会が必要だったのかもしれません。
コロナ禍を経験して想像もしなかったことが起こり、人が語る「真実」についてよくわからないことが増えました。自分の身に起きた出来事も、まさか私の人生のスゴロクの後半(真ん中か又は後半)に、こんなマス目が用意されていたなんて・・・と驚きの体験でした。
人には一人一人の「素直で偽りのない」その人なりの「誠実」があり、意見があり、思考、考察があります。誰がどう思おうとその人の自由です。だから、結局人のことはよくわからない。だから自分なりに腑に落ちる答えを見つけるしかありません。
年を重ねると、それぞれの人との付き合いが長くなり、人間関係が家族ぐるみや友人など沢山のつながりで膨らむものです。良縁、因縁、腐れ縁。私は多分それら全部ひっくるめて、「ご縁」を、どんな縁もとても神聖で大事なものだと思い過ぎていたように思います。
特に一度「#元気をもらったあの食事」を共にした人に対しては特に心を許しすぎる傾向があるようです。
とは言え、そんな食事の時間が愛しい気持ちには変わりありません。
一人の心の中にも常日頃、多くの感情があって、コンディションも日々変わっていくもの。人の数だけの視点と、見る角度が微妙に違っている。その上にそれぞれが立つ地盤だって違うんだもの。ちょっと傾斜の効いた場所からものを見る人だっているのだろうと思います。「それら」は、全てがどこかの地点の「一瞬」のもの。瞬間の切り取り。言葉にすると、まるで全部が事実のようになりがちですが、結局全部なんてわかりません。
でも一度耳に入ると、ほんの一部から勝手にストーリーが生成されていき、人間って本当に複雑でだな。って思います。
人と人の距離感も大きなポイントであり、近くに寄って眺めれば眺めるほど、解像度っていうものが高くなるように感じるし、感情だって湧きやすいものなのだと思います。だから凧揚げみたいなその日のいい具合に調整するというイメージがいいのかもしれないです。空を見て、その日の風を読んでうまく操作しなくちゃいけないんだろと思います。離れたり近くなったりを繰り返して、その時の一番気持ちの良い状態をキープできたら最高だな。そんな風に感じます。
「元気をもらったあの食卓と食事」を思い出すと、子供たちが小さくてギャーギャーと騒いでいた声が聞こえてきます。
あの時、何よりも元気をもらったのは私自身です。そのおかげで私はここまで元気にやってこれました。あの食事と一緒に過ごした時間、それらに改めて感謝をしてそして、未来に向かって明るい気持ちでこれからも食事を作り続けたいと思います。
新型コロナの影響で、私の仕事である料理教室も事業形態を変更する必要が生じ、自分自身に向き合って考える時間ができました。
何ができるのか、得意なのか、大事なのか。熟考し、一周回りました。
「食卓」をつくること、調理、一緒に囲むテーブル。一期一会の会話の時間がとてつもなく好きなのだと改めて実感しています。門扉をもう一度、開けて食事を楽しむ時間を大事に過ごしたいと思います。
今後は、「言葉」も、「料理」も学びを続けながら、仕事を継続していきたいです。
私は、「元気は食から生まれる」をとても信じていてこのnote企画に参加しました。
もやもやしていたことをウジウジとしないで、「元気をもらったあの食事」の場面、その時を思い出して、めいいっぱい感謝して活力にしたいです。
そしてそんな時間を過ごせた、「あの時」と、#元気をもらったあの食事 を一緒に囲んだ人に感謝しながら、ずっと元気でいてほしいなと思っています。
一緒に食卓を囲み、「一期一会」の時間、会話を楽しむ瞬間をこれからも過ごしていきたいです。
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