個々の可能性を育てる
ユダヤのことわざのなかに
「他人にすぐれようと思うな 他人とちがった人間になれ」
というのがあるそうです。
このような単純な言葉に、言いようのない新鮮さを覚え、
日常生活を営んでいく上での励ましを受けるのは、
世の中がそれだけ画一化し、人間の価値が比較の中にのみ
見出されているからでしょう。
たしかに比較という要素は、生活する上で
なくてはならないものです。
それがあるからこそ、自分が置かれた位置を
知ることもでき、また競争心も湧いて、
自分の能力の限界に挑むこともできるというものです。
しかしながら、この比較も、人間一人ひとりは、
決して同じであり得ないという「悟り」にも
似たもので、ひたすら表面的な優劣に主眼を置くならば、
それは、人間個々の可能性を伸ばすという教育の目的から
遠く離れてし まうのではないでしょうか。
教育の目的は、一人ひとりが自己の可能性を実現すること、
人それぞれちがう存在ということを
忘れてはならないのです。
嫉妬も、不満も、グチも、不平不満も、
すべては他人との比較から生まれる。
情報化がどんどん進み、SNSなどで他人の情報は
すぐにわかるようになり、比較することは
ますます増えてしまう。
そうして、年を追うごとに世の中に、
嫉妬や不満やグチが渦巻くことになる。
自分が持っていないものに対してネガティブな感情になる。
自分より優れたものに対する嫉妬やねたみ。
それは、お金だったり、財産や肩書、スポーツなどの身体的能力、外見や容貌、年齢、知能や知識等々。
ただし、昨日の自分との比較は有益だ。
毎日、昨日よりほんの少しでも、自分自身を改善し、
工夫をこらし、進歩発展すること。
それが自分を磨くこと。
それは、読書などの良き習慣の中から生まれる。
そして、その淡々とした毎日の中から、
「感謝」や「幸せ」をみつけていく。
すると、他人との比較による競争ではなく、
独自の進化をとげることになる。
「他人にすぐれようと思うな 他人とちがった人間になれ」渡辺和子氏がお勧めの言葉を忘れずにいましょう。
金子みすゞさんの『私と小鳥と鈴と』という詩がある。
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速く走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
我々は、どうしても他の誰かと自分を比較し、
一喜一憂してしまう。
「同期なのに、あいつのが先に役職が上になった」
「あいつのが幸せそうだ」「あいつのが金持ちだ」
特に、SNSが出現してからは、他人の投稿を見て、
コンプレックスや敗北感を感じたりしやすくなった。
その元にあるのは、「上か下か」とか
「優秀かそうでないか」という優劣の感情だ。
優劣という価値観は人によって違う相対的なものだ。
絶対的な価値観などは存在しない。
だからこそ、「みんなちがって、みんないい」のだ。
他人よりすぐれようと思うのではなく、
他人とちがった人間になりたい。
ありがとうございます。15週連続投稿バッヂ頂きました。
2500回キスも頂きました。ありがとうございました。