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本の愉しみ、ネットの歓び

最近ふと思うのは、読書のなかで一番楽しいページって、本文でもあとがきでもなくて、あとがきのあとの奥付のさらにあとに、「同じ文庫の他の本のタイトルがずらーっと並んでいるページ」だと思った。

別に西村京太郎でも、夏目漱石でも何でもいのだけど、ミステリを読み終えたらミステリの他の本がズラーッと並んでいて、純文学を読んだら純文学がずらーっと並んでいる。

子供のころは一心不乱に太宰を読んで、文庫を読み終えると太宰の他のタイトルとか、他の作家の作品を見て、「次何読もうかな」と夢中で探した。その瞬間が、一番楽しかった。岩波、新潮、角川などでそれぞれ幅があって、岩波になると「弁証法」とかに手を出すけど、新潮・角川はちょっと変わった小説も読める。

他にも創元文庫もあったし福武文庫とか、ちょっと経過すると講談社文芸文庫などもでてきて、文庫は花盛りだった。

多分、別に派手な宣伝をしなくても「本の最後のページに「タイトルと著者名」」をずらーっと書いておけば、読書好きは勝手に買ってくれる。ぼくはタイトルと著者名を覚えて、文学史をちょっと学ぶのに使ったり、本屋さんで注文するのに使った。文庫本が一番おいしいのは、「読み終えたあと次なんの本を買うか」を吟味するとき、だったような気がする。

                 ※

いま国立国会図書館がデジタル対応になって、多くの絶版文献がほぼパソコン1台で読める時代になった。方法は省略するけど、このまえ高良真実さんが「冗語」なんて概念を使っていたから、「怪しいなあ」とおもって玉城徹の「近代の濾過」を読みに行った。(おおむね「冗語」の理解をほぼ鵜呑みにして文章を読み間違えているのでは、と思った。)

あとは、小野十三郎の『短歌的抒情』なんかもネットで読めるし、田谷鋭さんの『白秋周辺』なども興味深く読んだ。明星というか、白秋系の人たちに歌論がないなんて間違いだというのもわかってきた。

知識をどうつけるか、という時代ではなく、どう調べてどう深く読むか、という時代になってきている。

本で愉しみを覚えたぼくは、いまネットで新しい知識を仕入れる歓びに向き合っている。昔は原典に当たれ、図書館にいけ、なんて言われたけど、現代ではパソコン開け、デジタルコレクションを見ろ、という時代になってきた。

ぼくみたいに外出できない人間には、ありがたい時代になっていると思う。













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西巻 真
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