ご回答とご提案です
~ズレてる理由がわかりました~ハラスメントと謝罪について
朽木祐さんからお返事をいただきました。
私もこの文章を拝読し、そもそものズレの要因がわかったので、その要因を朽木さんにご説明し、今後の対応について私も一つご提案をさせていただきます。
まず謝罪の件は、快く受けました。なかなかここまできっぱりと、公開の場で潔く認知し、謝罪をしにくいことがらではあるかと思いますので、謝意を表明した勇気に敬意を表します。
特に私自身はこの件で、朽木さんに対して個人的な責任を追求する意志はすでにないですし、時間も経過していることなので、わたし自身が「こういう出来事に対してきちんと怒れなかった」という自責の念もあります。
実際、旧来の彗星集はこういったハラスメントに対してはなにか許容的というか、とても鈍感な側面があり、私がいま個人的何人かの会員とはつながっていながらも、彗星集の人間ということを自称しないのは、そういう「鈍感さ」が中島さんや朽木さんが抜けたあともなにか温存されているように感じたことも、大きな理由の一つです。これはぜひ旧来から彗星集にいる人たちに、あるいは加藤治郎氏には省みてほしいと思っています。
実際「怒鳴るのがカッコいい」みたいな空気を初学の頃の私は感じていましたから、多くの会員がそれに影響を受けたことは想像に難くないです。もちろん朽木さんも影響を受けた人間のひとりであると拝察しております。
1つだけ指摘したいのは、朽木さんと東京歌会をやっていたとき、ご自身が「加害的になっていることに気づかない癖」があるのではないか、ということです。
ご自身は普通に評を書いているつもりでも、あるいは酒の席でふざけているつもりでも、いつのまにか一線を越えていることが結構あったのではないかと思います。なかなかそれを意識するのは難しいとは思いますが、「ニューアトランティスを読む」というコーナー、あるいは批評の問題に関してだけはぜひ一点、ご留意いただきたいと思い、この文章を書きます。
本題に入ります
あまりつらつら書くと錯綜するので、一度時系列に沿ってまとめます。
このまとめは同時に、朽木祐さんが私に対して感じている
「自らの読みを排除している」のではないのか、あるいは、後出しで補足することでも(定期が?というのはわかりませんが)「矛盾した表現になっていることは解消されてい」ないのではないか
について、お答えしていくものです。
まず、「朽木さんの読みを排除している」かどうか、これは実はもう文章を読む過程で、書かれてはいないのですが、すでに明白なことなのです。ちょっと前の記事を引用してみます。
まず、ことの発端になったのは、朽木さんの以下の文章に対してでした。
この文章に対して、私は以下のようにまず反応をしています。
これは何をしているか、というと、朽木さんの文章が多くの人に「そう感じれるかどうか、説得力を確認している」のです。
当然朽木さんはいま批評、というか散文で文章を書いているわけですよね。
そうすると、「構成がレイプめいている」ということをきちんと言うためには、社会的な文脈(コンテクスト)や、ご自身のなかでの体験でも構わないですが、
「メディアで商品展開される女性性を自然物に還元するかのように物象化し暴力に晒し最後は棄却する(イメージの外に追いやる) という構成」
が非倫理的かつ女性の同意のない男性の一方的な加害であることを、多くの人が納得できるようにしっかりその過程も込みで書かなければならないでしょう。それが不可能なら、文章に説得力はありません。
当然前提とされているかと思いますが、散文においては、理というか、文章のつくりがとても重要です。文章に説得力がない状態でいきなり他者の作品を「構成がレイプめいている」「気持ち悪い」などと言ってしまったら、それは不当なレッテル貼りあるいは言いがかりだと思われる可能性が高いということを朽木さんは想定しませんか?
そしてもう一つ前提とされているかと思うのですが、批評のような「読み」があって、短歌ができるのではなくて、短歌作品がまずあって、そのあとに「読み」が出るわけです。作品が一次的で「読み」は二次的なものにすぎないということはご同意いただけるかと思います。
たとえば私が非倫理的だと感じる短歌作品は、他にも多くありますが、私はそれをして彼らが「非倫理的でよくない」と言うつもりはありません。
たとえばこんな歌がありました。
私はどちらも名歌だと思います。大辻作品はだいぶ議論がありましたが、私は一貫してこの歌、あるいは連作の「ほんとうの加害者はアメリカそのもの」という眼差しを支持しております。
ところが、私が、朽木さんの評に感じたのは、全く批評のあり様を無視した態度です。さすがに表現の自由って、「何書いてもいい」ってわけではないですよね。
誰の短歌でも、作品そのもの、韻文に対して、これは不謹慎だ、撤回せよ、キャンセルせよ、みたいな声がでてくるのは、異常な状況だと思います。文学は抑圧された人間の無意識を解放する部分もあるし、想像力を解放することこそが文学に限らず芸術の役割なわけですから、それを抹消はしないわけですよね。
しかし、作品ありきの批評で「作品にないもの」を読み取るのだとすれば、そこにはしかるべき「理」が必要です。韻文は感情表現なので必ずしも理は必要ないですが、作品批評は当然「みんなそう思う」「あるいは最初はそう思ってないけれど批評を読んだらそう気づく」という発見があって、はじめて批評そのものに価値が出るのだから、そういう「理」がみえない批評は、作者も読者も不快にさせるだけでしょう。
ご自身でもご自覚されているように、「かなりの無理は承知」なんでしょうこの表現は。「あの理路を辿って」というのが、朽木さんの頭の中だけで起こっただけのできごとなのか、それともわたしが滾々と朽木さんの文章を理解しようとした、本文の「短い文章」に「理路がすべて表現されている」とご自身で思われているのかはわからないですが、わたしはこの「ニューアトランティスを読む」の文章だけではまったくその「理」を感じないです。「伝達可能性」に賭けるのは結構。批評という文芸なのだから、ぜひ理をもって伝達していただきたい。
それが出来ないのなら、わたしはこれを「唾棄すべきもの」だとそれこそキャンセルしなければならないのです。なぜなら、先程も述べたように作品があっての批評なのだから、批評が作品におかしなレッテルを貼りまくるということは、単なる悪意でしかなく、不当な抑圧でしかないからです。
このわたしの見解が、この文章に対するお応え、わたしが「朽木さんの批評が、そもそも細見さんの作品を抑圧している」という「判断の根拠」となりえると思いますが、いかがでしょう。理が見えなければ、批評は高圧的なレッテル貼りなのです。褒めるときもそうです。作品をゆたかにしない空疎な「褒め」も、単に作者をげんなりさせるだけです。
批評のような考証性や思索性の高い文章は(もちろんすべての読者ではないですが)ある程度の数の読者への納得感があって、はじめて成立するものだと思います。
文学者の責任について
政治家と文学者というのはまったく立場が違う、あるいは社会における役割が異なるものだと思います。政治家は社会をうまく回すために、不適切な表現は撤回しければなりませんし、謝罪もしなければなりません。引責辞任も当然あります。
しかし文学者は、そういった社会常識の範囲外にいます。自分の文章に関して、不謹慎だからといって、社会をうまく回すために謝罪なんてする必要がないです。一度活字になったり、印刷されたものが表現なわけですから、印刷されたもの、発表されたものを撤回なんて出来ません。変な話その表現で対価をもらうのが売文という文芸ですから、謝罪なんてしたら「金返せ」という変な責任(Liability)が発生してしまうでしょう。
謝罪も撤回もする必要はないですし、できるわけがない。私はそう思います。
朽木さんが私の指摘にご納得いただけるのであれば、この場ではなく、未来の誌面でしっかりとご自身の「理」をあきらかにして、ご自身が細見作品に対してそう思った理由というのを、多くの方にわかるように伝達する意志をもったほうがよろしいかと思います。このやりとりを見ず、いきなり「ニューアトランティスを読む」を見て驚く年配の読者の方もいらっしゃるでしょう。
もちろん、すぐそうせよというわけでもないし、それについてご自身が納得するまでは保留することも選択の一つです。形は「ニューアトランティスを読む」の範疇ではなく、なにか寄稿という形でも構わないでしょう。
その場合、多少、細見作品から離れて、視野を開く持ち、同時代の男性たちの「無意識の「性」加害性」のようなものをあぶり出すことも重要な批評的視座になるやもしれません。
私の方からは言いたいことは言ったと思うので、これ以上の追求は行いませんし、実際はハラスメント委員会などへの提案や編集部への提案は朽木さんの応答(responsibility)を確認してからだと思っていたので、何も行っていません。このままご放念ください。未来短歌会において、性別や年齢を問わず会員ひとりひとりがハラスメントに対して「許さない」という態度を保持することが重要だと思っております。
私は以上のように指摘し、朽木さんが「自らの批評が暴力的であるかどうか」を一度省みてほしいと、心から願ってやみません。以後も、私信でも公開の場でもご自由に私に対して思ったことを述べていただいても、時間の許す限り適宜回答させていただきます。
私は多くの場で他の歌人たちを積極的に批判しているので、私の文章にたいして不満を持っている方のご意見にも、誠実にお答えしたいと思っております。以上です。
長い間、お付き合いありがとうございました。