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【ホラー小説】黒衣聖母の棺(8)

(同一テーマで、ミステリ仕立てにした小説を公開中です。「【密室殺人】黒衣の聖母」) 

(あらすじ)豊後の国が大友氏の領地だった時代、沖にある馬飼い島(魔界島)に、異国の難破船が漂着する。
 島に立ち寄っていた十兵衛は、血抜きされたような異様な乗組員の遺体を検分した。
 そのころ島の娘、いさなは自分だけが知っていた洞窟で、異人の男に出会い、その男が守っていた棺のなかに、黒衣の少女を見た。
 府内で宣教師に育てられ、受洗してジョアンという名を授かった久次郎は、浜長(はまおさ)のトヨに呼び出された。
 トヨは秘かに生き残りの異人を匿っていた。彼女は難病の孫を救うため、異人の信仰する異教にすがろうとし、久次郎に助力を求めた。
 トヨに呼び出されて、その屋敷に参じる久次郎と十兵衛は、扉に心張り棒を噛ましてあった蔵の中で、こときれているトヨを発見した。
 府内から破船の検分のため、代官田原宗悦らの一行が島に到着した。
 久次郎や十兵衛も駆り出され難破船に乗り込んだ結果、生き残りはいなかった。
 十兵衛は船内で、黒い聖母の異様な気配を感じ取った。
 代官田原宗悦は、抜け穴の存在を知っていた仙吉をトヨ殺しの下手人として牢に繋いだ。
 十兵衛はトヨの邪教の根を探るため、招福寺を訪ねて白蓮の弟である義圓に出会う。
 台風が迫るなか、白蓮は浜長の屋敷から黒衣聖母の棺を強奪し、島の山頂にある城跡に運んで調伏の儀式を始める。
 白蓮は逆に、聖母に取り憑いた魔物の餌食になる。聖水の力でなんとか魔物を退けた十兵衛と久次郎。
 翌朝、難破船の帆柱が折れるのを見張りが目撃する。十兵衛を入れた一行が難破船の検分を行い、帆柱に白蓮の遺骸が吊されているのを確認した。

(見出し画像は、Dimitris VetsikasによるPixabayからの画像)

(承前)
 田原信濃守が持ち帰った白蓮の遺骸は検分されたのち、招福寺に返された。
 白蓮の弟である義圓は、みずからが住持を代行すると檀家に宣言し、兄の仮葬を営んだあと、檀家の若い者を集めてなにやら話し込んでいた。

 白蓮が黒衣聖母を持ち去った経緯は宗悦の手の者によって調べられ、棺を担いだ若者らは特定されたが、彼らはみな一様に城跡まで運んだあと、残された白蓮がどうしたか知らぬ、と口をつぐんだ。
 
 信濃守の報告から、村人たちの今朝の所在が確かめられることとなった。 
 村役が集められ、今朝方の村人の所在を互いに確認できるかしらみつぶしに調べていった。その結果、主立つ村人は互いに証人となって当時の所在を明らかにした。
 狭い村である。皆うそは言っていない。
 白蓮が誰の手によりいかなる方法でもって、明け方に破船の帆柱に吊される仕儀になったのかは、謎のまま残った。

「前夜から吊しておかれたものが、早朝に風が強くなったによって帆柱が折れて発覚したのではあるまいか」
 思慮深い、壮年の田原伊豆守が推察を口にした。
「なるほどの」
 宗悦は頷いた。

 早速前夜からの見張り番が呼び出された。
 六助と同じく木訥な若者は、見張り小屋から離れたことはなく、たれも舟にて破船に漕ぎ着ける者はいなかった、と証言した。
「もし白蓮殿が帆柱に吊されれば、その所行を見逃すはずはございませぬ」
 結局、完全とは言いがたいものの不断の見張り番の監視下で、下手人は白蓮を帆柱に吊したことになる。

「六助が見たという鬼火もある。天狗のような怪異の仕業ではあるまいか」「確かに、人の手によってはありえぬ話じゃ」
 宗悦はさじを投げた。

 昼を過ぎる頃から、宗右衛門屋敷の周囲がにわかに騒がしくなった。
「何事ぞ?」
 田原宗悦が、物見を遣る。
「村人が、門前に押しかけておりまする」
 帰ってきた近習が答えた。「この屋敷に異人が匿われておったことを、知ったかにみえまする。かの異人を引き渡すよう申しております」

 宗悦が息巻く。
「我らを差し置いて出過ぎたことを。追い払え」
 さるふぃは衣服を改めて姿を消したことしかわかっておらず、その行方を検分吏たちは掴んでいなかった。

 宗右衛門屋敷の門前では、義圓が十人ばかりの村人を率いて声を張り上げていた。村人たちは、手に手に得物を持ち、鬨の声を上げている。
 事実上の浜長であったトヨが不慮の死を遂げ、跡継ぎの茂作も亡くなったことで、指導者の威光が喪われつつある。
 核を見失った村人たちは、義圓などの扇動にたやすく同調するようになっている。

「お代官さまに申し上げる。この村のことは我ら自身で裁くによって、かの異人の身柄を引き渡して頂きたい」
 塀の上に、得物の槍や刺股の放つ鈍い光が見え隠れする。
 宗右衛門屋敷は堀こそ埋めてあったが、板塀は石組みを基礎に矢狭間を抜いた細工がされた侍館である。

「出過ぎたことを申すでない。裁きは我らに任すがよい」
 守護の大友氏は当主自ら改宗するほど切支丹に入れ込んでおり、検分吏の目的は異人とその文物の保護にあったが、無論そのようなことは言わない。
 村人は守護代の威光に一瞬怯んだかに見えたが、義圓だけはなおも言いつのった。

「南蛮の化け物は死肉を喰らい、生き血をすすると言うではないか。
 我が兄、白蓮は化け物を調伏しようとして犠牲となり、昨夜のうちに破船に吊されておった。人ならぬ化け物の仕業ぞ。
 白蓮は尊い犠牲となった。その弔いじゃ。彼の化け物と異人をここにて成敗できねば、さらなる害をなそうぞ」

 田原の近習は門の脇にある櫓に登り、弓を絞って威嚇のため村人たちに向けて放った。
 彼らはなおも不服な様子だったが、一斉に逃げ散った。
 村人を追い払った田原宗悦は、加平に問うた。
「異人の行方はまだわからぬか?」
 加平は額を擦りつけながら言った。
「あいすみませぬ。探させておりますが未だ」
 宗悦は嘆息した。文官ながら、騒動がこれで済むとは楽観していなかった。

 いさなは屋敷内の物置小屋に水汲み桶をしまうと、とぼとぼと下女の控えの間に向かった。
「どうした。元気がないのう」
 十兵衛が声を掛けた。この男は宗右衛門家とは関わりがないのに、いつの間にか我が物顔に中を歩き回っている。

「落とし物じゃ」
 いさなのくるすを差し出した。
「どこで?」
「連いて参れ」
 いさなの問いには答えず、離れのほうへ向かう。

 玉砂利の中に飛び石があり、その先に池があって蓮が花を付けていた。池は雨水を貯めるためのもので、観賞用ではなかったが機能美に満ちていた。
 十兵衛は我が家のような気安さで離れの戸を開いた。
「爺さま!」

 ぱーどれ、久次郎が、空の寝筵を前に放心したかのように膝を抱えていた。
 風の音が強く、離れ家をゆすっている。
「ここにて、異人が匿われておったのじゃ」
 いさなは筵を見た。体臭のきつい南蛮人のにおいが残っていた。

「人の世の営みは皮肉なものよ。
 名在る旧家に誕まれて苦労知らずに育ち、そのまま過ぎると思うておったに、下克上のいくさに敗れ、落ち延びるうちに見聞を広めて、我が身ひとつにて勝ちを拾う醍醐味を知る者もおる」
 十兵衛が自分のことを語っているのだ、といさなは気づいた。

「久次郎殿の存念は?」
 不意に尋ねられたぱーどれは、しばらく考えて答えた。この世を楽土に導くため、この身をば尽くしたい。
「耶蘇教はその答えになりそうかの?」
「しばらく前ならば、ためらいなく返答できたのじゃが」久次郎は苦悶の表情を浮かべた。「でうすの教えが、衆生を楽土に導くと信じている。しかし、あの聖母を見たときから、何かしら不安の念に捕らわれたのじゃ。
 強い光は、強く濃い影をもたらす。
 同じように南蛮の優れた文物には、何かしら強い負の力もついて回るような気がする。黒衣の聖母が、悪意ある形にてトヨ殿の願いをかなえたのを見たときから、そう思うようになったのじゃ」

 腫れ物によって命を落としそうになっていたヒサノの子ども茂作を助けるため、大女将のトヨは黒衣の聖母に願をかけた。
 我が命ある限り、孫を長らえさせてくだされ、と。
 聖母は願いをかなえ、茂作が亡くなるやトヨの命も奪われる結果となった。

「それは我がためです」
 敷居の向こう側から、女の声がした。
 蔀が開けられ、いつからかそこに控えていたヒサノが入ってきた。鬢がほつれていっそうやつれた顔には、かつて器量よしを謳われて浜長の嫁御にと請われた面影を留めていなかった。

「わたくしが、これの中味を抜いたのです」
 その手には、黒い木彫りの菩薩像が握られていた。
 実は天女を模した像で、子どもを抱き、吉祥果をもった鬼子母神像であるという。訶梨体母神は、本朝での鬼子母神にあたるのだ。
「トヨ殿の、訶梨体母の形代ではないか」
 久次郎は以前それを見たことがある。

 ヒサノはこっくりと頷いた。
「お義母様の目を盗んで、中味を抜きました」
 そう言って、底の蓋を外した。
「本来、この中にはありがたいお言葉を記した祈祷文が入っているのです。
 私がそれを抜いたは義母様が祟られればよい、との浅慮でございました。 
 それがために我が息子、茂作までもがせっかくよくなった病がぶり返して亡くなるとは・・・・・・」

 やつれた顔のヒサノは言葉を詰まらせた。
 これは告晦なのだ、と久次郎は受け取った。
 十兵衛はトヨが亡くなった晩、それを見たヒサノが笑みを浮かべていたのを思い出した。長年の仇をとったかのような快心の笑みだったが、それは己が復讐が効を奏したと思ったが故だったのだ。

 トヨはこの亡き息子の嫁を下女のごとくに遇していたと聞く。互いの心に、余人にはわからぬわだかまりがあったにちがいない。
「彼の南蛮人が茂作殿のために処方した薬とは、どのようなものだった?」 
 十兵衛が唐突に久次郎に尋ねた。
 久次郎は懐から小さな紙包みを取り出した。後学のため、一包だけ取り置いていたという。

 十兵衛は包みを開け、茶色の粉に鼻を近づけてくんくんと嗅いだ。
「上方の湊にて見たことがある。招魔の粉じゃ」
「何の粉かご存じなのか?」
 十兵衛は頷いた。
「芥子の実から摂った液を固め、粉にしたものじゃ。
 阿芙蓉、あるぴぇん、あーへん(阿片)などと称しておったわ」指先に付けて少し嘗めた。「本朝の芥子からはこのような液は採れず、天竺にてよく摂れると聞いた。これを煮出した汁は病や傷の痛みを消してくれるそうな」

 久次郎は納得した。「それで、茂作殿は快癒したのじゃな」
 十兵衛は、首を振った。
「あくまでも痛みを取り去るのみの効用じゃで、病そのものを直す力は持たぬ。病は陰で進行するのじゃ」
 いさなが言った。「茂作殿は一度快方に向かったと思われたのに、亡くなられたのはそのためか」

 ヒサノは呆気にとられたかのように、粉を見つめている。
「薬の力では、天が定めし定命は変えられぬ、ということじゃ。
 阿片の力を借りて、いっとき病状が回復したように見えても、それはつかの間の幻に過ぎぬ。
 さらに・・・・・・」
 
 十兵衛は言い足した。
「これを燻した煙を吸うと、幻覚を見ると言われておる。
 南蛮船の乗組員どもも、この煙に耽溺して妄想に憑かれた者がおったことが、航路を誤った一因ではあるまいかの」
「なるほど。亡くなった船員たちの惑乱した状況は、嵐のみが原因にてはないかもしれぬということか」
「真相はわからぬがな。この煙には船酔いを鎮める効能もあるが故に、使用した見習い船員がおったのではあるまいか。
 その効能は、御身が実感したであろう」

 久次郎は、検分で船に乗り込んで気分が悪くなったとき、十兵衛が香炉からにおいを嗅がせてくれたことを思い出した。
「久次郎殿、教えてくだされ」
 十兵衛は居ずまいを正して尋ねた。
「屋敷の蔵にて、トヨ殿が害されているのを見つけたとき、遺骸が握っておった小柄を隠したのは何故じゃ?」

 いさなは、驚いたように久次郎を見つめた。ヒサノも口に手を当てている。
「やはり貴殿には気づかれておりましたか」
 久次郎は、苦い顔つきをしたのち、覚悟を決めたかのように話し始めた。「でうすの教えに帰依する者は、自害を禁じられておりまする。
 儂はトヨ殿に先礼を施し、後日くるすを授ける予定でございました」
 切支丹の教えに対するトヨの理解は、多分に誤解を含んでいたがそれはおいおい正してゆけば良い、と思っていた。

「島の実力者であるトヨ殿の入信は、布教のためにおおいに寄与するはずだったのじゃ」
 あの日、蔵の中の光景を見たとき、久次郎はトヨが何かの理由で自害したと考えた。
 しかし教義を理解しておらぬとはいえ、己が洗礼を施した信者が自害したとは思いたくなかった。

「とっさに、その口元に返り血が飛んでいた聖母に皆の注意を向け、小柄を隠して何者かに害された体にしたわけか」
 あのとき、いち早く聖母の口元の血を指さしたのは、久次郎だった。
「トヨ殿と茂作殿が亡くなられたは、御身のせいではないのじゃ」
 十兵衛はヒサノに向かって優しく言った。

 八つを数える頃には、義圓の率いる村人の数が数十人以上に増えていた。 
 義圓自身は、鉢金を被り具足を付け、戦支度をしている。その貧相な体格から滑稽なようにも映るが、槍や棍棒を手にした村人たちは、この法師を頭と仰いでいるらしい。
「印地打ちじゃ。かかれ!」
 義圓のかけ声に従い、石が宗右衛門屋敷に投げつけられた。ばらばらと音がして、石が板塀にぶつかった。

「南蛮人の死体を掘り返したは、何故ぞ?」
 離れでは、十兵衛が久次郎に問うていた。
 裏庭の池の中にある蓮の花が、風に揺れている。
「十兵衛殿は、なにもかもご存じのようじゃな」
 久次郎は諦めたように首を振った。

「手に豆をこさえておったで。慣れぬ仕事をしたのか、と思ったまでよ」
 なるほどの。久次郎は己が掌を見ながら言った。
「彼の棺に収められておったは、さるふぃが妻女の亡骸じゃ。”ろざりあ”という名らしい。
 歳の離れた夫妻ながら、仲むつまじかったようじゃ。
 両人は夫妻にてさるふぃの新しい任地に出立したが、痛ましいことに慣れぬ船旅で妻女が病を得て亡くなられた」

 いさなは、異人の悲しげな目を思い出した。
「さるふぃの悲しみようは尋常でなかったようじゃな。そのため、亡骸に手を施して、生前の姿を留めおくことにした」
「そのようなことができるのか?」
 十兵衛は驚いたように言った。久次郎はこの物識りの若侍ですら知らぬことがあるのか、と思った。

「さるふぃは薬師じゃが、亡骸をそのままの姿に留めおる術に長けておる」「即身仏のようなものかの?」
 密教の僧侶が入定のため土中にて瞑想しながらその命を絶つと、姿形がそのまま留め置かれる、と聞いたことがあった。
「遺骸から血を抜き、別の薬液に置き換えることによって、生前と変わらぬ姿を長く保つことができるとのことじゃ。
 先頃ふらんしす上人(フランシスコ・ザビエル)様が、唐土にて身罷られた。耶蘇会では上人様を聖人に推挙するため、その亡骸を長く保存する意向を定めたらしい。
 それがためさるふぃが派遣され、保存処置を施す手筈になった、とのことじゃ。
 ところが、船旅が始まった早々に妻女を亡くしたがため、その身体に術を施したさるふぃは、ついにはそのことのみに憑かれたのじゃ」

「それが、あの棺の聖母の正体か!」
「あの聖母を見れば、さるふぃが力量を識ることができようというもの」
 十兵衛は頷いた。
 あの聖母はまるで生きているかのように肌に弾力が感じられ、肌理のこまかな白い皮膚が腐らずにそのまま保存されていた。

「それに加え、船が難破して耶蘇会はさるふぃの所在を見喪った。
 府内でお館様に庇護されているぱーどれからの書状には、さるふぃを探し保護するようしたためられておった。
 もし彼の者が命を落としていた場合は、破船より書物を回収し、その奥義を取得して彼の地にて任を果たすべし、と」

「それが故に貴殿がさるふぃに学び、死骸を使って術の修練を積んでおった、というのか?」
 さしもの十兵衛も、思いもよらぬ事情に驚いた。府内の宣教師も無理なことをいうものだ。
 十兵衛の考えを察したか、久次郎が付け足した。

「ふらんしす上人様が亡くなられた地は、暑熱ゆえ遺骸も長く保存しておけぬ。ぱーどれ様たちも慌てておったのであろう」
 まずは、犬を使って技を確かめようとしたところ、「この有様じゃ」
 情けなさそうに右手の傷を見せた。
「仕方がないで、畏れ多いことではあるが死体をもって保存術の修練をばするつもりであった」

「そのために、死体を掘り返したのか?」
 十兵衛はやや呆れぎみに問うた。
「我が教えに背くやもしれぬ、と思うたがこれもぱーどれ様が願いを叶えるためじゃて」
「何故に、そこまでして?」
 久次郎は諦念とともに語り始めた。

 ふらんしす上人ことフランシスコ・ザビエルは、日の本を訪うて、京、周防にて布教に努めたのち豊後を訪ねた。
 豊後府内では守護たる大友氏の庇護を受けて大いに布教を行い、後進を育てて礼拝堂や神学校、育児院や施療院を建てた。

「儂は生まれてのち、親の顔を知らぬ。育ててくれたはぱーどれ様たちじゃ。
 その恩に報いるは、親への恩に報いるに等しいのじゃ」
 親を知らぬぶん、報恩の思いが強いらしかった。
 
十兵衛は嘆息した。
「思いがけぬことが重なったようじゃが、もっとも意想外であったのは、魂が失せ、抜け殻となったさるふぃが妻女の遺骸を依り代にした異国の魔物を、一緒にこの日の本に連れてきてくれたことであろうよ」

「私などには思いもよらぬことがあったのですね」
 ヒサノもため息をついた。意外な事を聞かされた驚きに、来意を忘れていたようだった。
 ヒサノは思い出したように、いさなに向かって小声で囁いた。「いさなにお話があったのです。あとで我が奥の間にきてたも」
 いさなは、怪訝な顔で頷く。
 そのとき、母屋の方から投石の音が聞こえてきた。

 宗右衛門屋敷の騒乱の気配は、島の外れにある仙吉の牢まで伝わってきた。
 仙吉は天井が低い牢の中で、ゆっくりと体の向きを変えた。じめじめとした岩壁から正面に向き直ると、やや窮屈な体勢で鉄の格子に手を掛けた。
 格子そのものは錆びた外見とは裏腹に頑丈だが、基礎は手抜きだった。真ん中の一本にゆっくりと力を掛けると、下側の部分を引き抜く。

 毎晩少しずつ格子の基礎部分を掘り、朝には見かけ上元通りに戻しておく。根気のいる作業だったが時間は充分あり、昼はゆっくりと寝ることができた。
 まずは一本。
 そして三本目が外れると、細身の仙吉ならばなんとかすり抜ける隙間ができた。
【ホラー小説】黒衣聖母の棺(9)に続く)

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