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あの日感じた事を思い出して

おはようございます。
中々寝つけず記事を書きました。

今日は3.11ですね。

(画像引用:https://www.jiji.com/jc/d4?p=lat216&d=d4_quake)

皆さんよかったらこれを読んだ後にYahoo!で3.11を検索してみてください。

私は東北出身で、震災当時は中学1年生でした。

津波の直接的な影響は無く、震災のみでしたが、3日程ライフラインがストップしました。

記憶にある限りですが当時を振り返ってメモ感覚で書いてみようと思います。


【卒業式練習】

中学の卒業式が近いので体育館で式の合唱練習をしていた。

もうすぐ春休みが来るのでとてもワクワクしていたし、部活の遠征も楽しみでどこか浮ついていた気がする。

全学年が教室に戻って、職員会議待ちをしていた14時半頃。

お昼食べた後だったし、校長の話がとにかく長くてみんなでダラダラしていた。


【3.11】

「明日の部活何時からだっけが?」

私は自分の席に着く。

「昼だべ。何時に終わるかわからんけど」

女の子2人と教室の1番後ろの席で話していた。

ふと教室全体を見回すと左後ろの棚の上に数人の男子が座りながら話している。

(早く帰りたい…)

2011年3月11日14時46分18秒。

「ん?ねぇ、なんか揺れてない?」

「えー、分かんない。」

「たくむー、これ揺れてるよね?」

「んー、確かに言われてみればそうかも。」

「あれ?収まった?気のせいか」

「でもちょっと揺れてたかも」

「縦揺れかもね…」

このくらい話していた気がする。

私は座っていた為なのか、確かに余震を感じていた。

その後すぐに本震がきた。

時計が落ちる音、勝手にスライドするドア、落ちる本、点滅する蛍光灯。各々が自然と机の下に潜った。

実際には短いがみんなの驚く声と悲鳴、泣き声が2分くらい続いた気がした。

揺れが収まり、一気に家族の顔が浮かんだ。
それくらい大きかった。

ぼーっとする中、しばらくすると先生が戻ってきて、気をつけて早く帰るように促した。

おばあちゃんに電話しようと思ったが、10円を持っていなかった。焦りがやっと出てきた。

私の家は結構な田舎で、帰る方向が一緒の人が少なかったので小学校ぶりに数人で集まって帰った。

なつみが親と連絡がつかないかも知れないとの事で私の家に一緒に帰ることにした。

外に出ると、信号機の灯りが消えていた。

不安になった。

折角久々に一緒に帰ったのに話さなかった。
手足も凍る寒さの中、ただひたすら1時間弱の道を2人で霜を踏みしめて歩いた。

家に着いてすぐ、急いでテレビとコタツとストーブを付けようとしたが付かない。

廊下に居る犬を出そうとリビングを出ると、ゲージが崩れていた。

犬と暖を取り合いつつ、電話を掛ける。

なつみと2人きりで怖くて紛らせる為にゲームをしていた。

少し揺れた。

すぐにおばあちゃんが妹を拾って会社から帰って来てくれた。

また少し揺れた。

しばらくすると、なつみの親が迎えに来た。

あっという間に夜になった。

おじいちゃんが帰ってきて、工事の仕事をしていて自家発電機が家にあったのでこっそり付けた。

ママが帰ってきて、照明は絶対付けるな。と、テレビとロウソクで一夜を過ごすことになった。

テレビを付けた。

流される家、推定行方不明者の数、明らかに逃げ遅れる人々、緊急地震速報。

現実味が無かった。

一夜で数回小さく揺れた。

夜はみんなで解凍したご飯を食べた。


【その後】

次の日の朝。

医療系の会社に務めているパパは帰ってこなかった。

たまたま一昨日に妹判断でつめたというガソリン満タンのママの車でママの実家に向かった。

向かう途中のガソリンスタンドは閉まっていた。

向かう途中の道路の一部はアスファルトが裂けていた。

ママの実家は農家なので、お米と漬物と野菜を少し頂いた。

ママの実家はリフォームしたばっかりで太陽光発電が付いていた。

シャワーはさすがに借りなかった。

帰る途中、ヤマザワ(スーパー)に寄った。

灯りが全て付いていなかったが、営業中だったので中に入った。

入口に2人の店員さんが居てカゴと電卓を1つずつ渡された。電卓は整理番号みたいなものらしかった。

さすがに爆買いしてる人は誰も居なかった。

レジで電卓とカゴを渡して確認してもらい、支払いを終えた後、ダンボールに入れて帰った。

テレビを付けた。
行方不明者が増えていた。死者数も増えていた。

電話が鳴った。

パパは明日2時間だけ帰れるらしいという内容だった。
話せなかった。


パパが帰ってきた頃にはライフラインが普及した。

ニュースを見ていると原発事故が起こったらしかった。

電話が鳴った。

遠征は無くなったらしい。


【ママ友の話】

「あいのお父さんがね、11日の昼に気仙沼に居たっけんだって。
軽で行ってたから急いで家に帰ったらしいんだけど、何してる時もあの光景思い出しちゃって寝れないし。
んだから、もう行がんなねってなっちゃって不眠でわざわざ戻って、流されてきた軽トラに死体積みしたりしてんだって。
そりゃ一生トラウマだよね。。」


【思いだして考えた事】

全然話まとまって無いけど。
私の3.11と言ったらざっくりこんな感じ。
当時は何も考えていなかった私は色んな事を学んだ。
これらはコロナの話と結び付けられると思う。

・じいちゃんが自家発電機を持っていたり、太陽光発電が付いていた話
→マスクをインフルや花粉症の為に多めに持っていた人が助かっている現状。
・たまたまガソリン満タンにしていた車の話
→年末年始にインフルにかかっていた(私もその1人)為に除菌ジェルやフマキラーのウイルスブロックスプレーを持っていたタイミングがいい人(又は日頃から備えていた人)が得をするケース。
・スーパーで働き続ける店員さん、(医者ではないけど)病院で仕事し続けたパパ
→外出自粛令で少人数で営業する店舗スタッフ

更には、部活も含め、ライブ等の自粛も共通する。当時の私はこんなに生ライブができずにYouTubeコンテンツを利用する世の中になるタイミングがあるとは思わなかった。

でもここ数年で繰り返される事はこれから先あるかもしれないと思った。

だからもしかしたら生ライブという儚い物にこれから価値が高まるかも知れない。

P.S.トレペって昔からこういう略し方だった?

これから先はいつか有料で→

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