やっぱり亀になりたい
「相手のことを考えましょう。」って、小学校の道徳の授業でも習うワードなのに、大人になると、どうして、「自分が絶対に正義だと疑わない人間」が、こうも増えるのだろう。
それとも、「自分にも非があるかもしれないが、いかんせん、感情が燃えたぎって、止まらないぜベイベー人間」なのかい。
知らぬ間に、正義と正義のぶつかり稽古の行司をさせられて、気付けば、中綿のつぶれた、ぬいぐるみになってしまった。そんな話を同僚にしたら、週末に、無印良品の補充用綿を買ってきてくれるそうだ。そういうことではない。
わたしからすると、どちらも、全くもって、正義ではない。どちらにも非があって、登場人物全員、人間性が、ゴミくずだ。
不毛な争いで、暴れ散らかした土俵を、あとで掃除する人がいるということを、考えられないのだろうか。
ここまで、自分が正しいと信じてやまない人ばかりに囲まれていると、「他人の気持ちを考えられること」は、長所ではなく、弱さになってしまう。わたしこそ、気持ちを慮るという、正義中毒に侵されているとさえ、感じる。
そんな世界は嫌だ。やっぱり、早く亀になりたい。愛亀と飼い主の人生を、期限付きお試し交換できないだろうか。
でも、繊細な飼い主に、甘やかされて育った愛亀は、きっと、言いたいことも言えない、こんなポイズンワールドを、生き抜いてはいけない。甲羅を背負って、パソコンを打っている愛亀の姿を想像すると、愛しくて、悶えるけど、きっと無理だ。
そんな愛亀の苦しんだ姿を見るくらいなら、すぐにでも、飼い主が代わってあげよう。愛亀は、甲羅のてっぺんが引っかかって入れない、ロックシェルターに、どうにか入ろうとする努力だけで、評価はAAAなのだ。
年齢を追うごとに、この環境に慣れるほどに、周りの普通と、わたしの普通の違いがはっきりして、自分の普通を追求することの、ハードルの高さを実感している。
そんなに周りは、繊細ではないのかもしれない。ただ、わたしのような、生きにくさを感じている人にとって、陰ながら、理解できる存在でありたい。
「人間界」ってタイピングしたら、「人間界は生きにくい。」って予測変換が出るくらい、分かりみが過ぎるから。
愛亀が、まだ見ぬ世界へ旅立とうと、水槽の端で必死に泳ぐ姿は、愛おしいが、ヒト属ヒトが、己の正義を振りかざして荒ぶるのは、ただの迷惑行為なのに。
何事も、バランスと調和って、大切だと思う。最近、ショートヘアの襟足が伸びて、どんぶり頭になってしまった。明日は、どんぶりのバランスを取るために、美容院へ行こう。