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京風うつくし図鑑-4 [源氏物語を飾る、朱雀院跡]

京都はインバウンド観光客に加えて、大河ドラマ「光る君へ」の影響もあってか、源氏物語ゆかりの地は圧倒的な人気らしい。平安京ができたのが延暦13年(798年)というが、これほど時間が経過した今も、京都では当時と同じ名前で呼ばれる地名が多く残っている。歴史の跡をたどって散策する楽しみもまた、京都ならではと思われる。源氏物語に登場する朱雀大路、その地に構えた広大な敷地の朱雀院は、遠い古えの残り香を今に伝えている。そこでこの京うつくし図鑑の第4回めは、この地に語り継がれる朱雀大路と朱雀院の物語をご案内させていただきたい。

牛車が行き交う朱雀大路、源氏物語に描かれた「朱雀院」


朱雀大路(すざくおおじ)は、平安京の心臓部を貫く大通りである。その存在は古都の歴史を語る上で欠かせない。平安京は遷都された際に、京の中心を南北に走る大きな道路が建設された。南端には羅城門、北端には平安京の宮城として、天皇の天皇在所「大内裏」までをつなぐ都市の大動脈、それが朱雀大路である。幅は84メートルに及ぶダイナミックなデザイン。壮大な道路は、当時の町の人たちはもちろん、現代のわたしたちも驚かされる。そんな大きな道路の両側には幅広い歩道が設けられ、季節ごとに木々が美しい景観を作りだしていた。朱雀大路は平安京の中心地であり、さらに政治や文化の舞台だった。天皇や貴族たちは、牛車に乗ってこの大通りを行き交い、重要な儀式や政務を執り行なった。市民は日々の暮らしにこの道を利用した。商人たちはその両側に店を構え、賑わいを見せていたことだろう。

朱雀院、上皇たちの御所、後院に京の幽玄を思う

NISSHA株式会社の敷地にある「朱雀院跡の碑」

その朱雀大路の西側、三条通りから四条通の間に位置した朱雀院。嵯峨天皇の造営で、その后の檀林皇后(橘嘉智子:たちばなかちこ)も御所として用い、皇子の仁明天皇が周辺を取り込んで拡充したそうだ。八町もの広大な敷地を占めたと伝わる上皇方の御所として造られた。朱雀院の広さはあの京都の名所、歴代の天皇が行幸された宴遊地で、弘法大師空海が雨を祈った霊場と伝えられる「神泉苑」と同じくらいの広さがあったという。つまり、平安京では、「平安宮」に次ぐ広さだったのである。

『源氏物語』には、桐壺帝の父、一院と息子の朱雀院がここを御所としていたとある。物語の中では、第7巻「紅葉賀」で、桐壺帝が朱雀院に行幸する場面がある。その折、光源氏と頭中将が「青海波」を見事に舞う情景が描かれている。この有名な場面は、源氏絵にも描かれてるほど有名だと聞いた。

朱雀院の華やかな姿に、平安文化の旋律が漂う

その平安京の栄華もまた、時代とともに変遷を迎える。戦乱や災害により、朱雀大路も徐々にその輝きを失っていく。今では当時の大通りの面影を見ることはできないが、その歴史の息吹は、京都の街の至る所に感じられる。京都市中京区の四条中新道にある「NISSHA株式会社」の敷地に「朱雀院跡の碑」が残されている。平安京の歴史を物語る重要なランドマークである。

この石標は、かつての朱雀院の栄華を静かに示している。その頃、牛車が行きかった道は、今では自動車に姿を変えて忙しく行き来する。この地に立つと往事の姿は見られなくとも、平安時代の栄華とその後の変遷に思いを馳せることができる。朱雀院跡の碑は、歴史の一端を伝える貴重な場所。古都の芳醇な文化と、歴史に隠れた悲しみ。車が激しく走るこの道路にあって、その一瞬、あの平安時代の旋律が聞こえるような気がするのである。
 
 



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