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京のうつくし図鑑‐9〖鳴滝、神秘的な名前に強く惹かれて…〗
晩夏の京都、お盆をすぎても一向に秋の気配のない今年の京都。相変わらず、内臓が熱で焦げそうな猛暑である。そんなある日、わたしは嵐電の車中にいた。京都市内と嵐山をつなぐ京福電車は、京の人たちは嵐電と親しみを込めて呼んできた。この電車は市民の暮らしを支える交通機関だったが、このところのインバウンド景気で外国人観光客が5割~6割という印象だ。その理由は、この路線は観光客を魅了する観光地は、世界遺産がそろっていることもあるが、その代表格の嵐山だけではなく、エンタメの宝庫、東映映画村をふくめ、この路線は名所旧跡がたっぷりあるのが人気なんだと思う。そんなことを考えていると、鳴滝の駅についた。わたしには特別の思いのある地名である。滝が鳴るという地名は、どんなミステリーが隠されているのかとかねがね思っていた。地名には必ずステキな物語がある。それが京都の魅力だと思う。
《滝が鳴る?》鳴滝の名前の由来に、連綿と伝わる防災の知恵
むかしむかし、ある雨上がりの午後のこと。ひとりの村人がこの小さな滝がいつもと違うことに気がついた。いつになく大きな音をたてて流れているのである。不思議に思った村人は、寺の住職にその理由を尋ねたが、住職も分からない。けれど不審に思うところがあり、念のため住職は村人に高台に一時避難するように伝えた。するとその夜、突然大水となり、家や田畑が流されたのである。さいわい村人は全員高台にいたので無事だった。それから、この地ではこの災害を長く記憶に留めるために、この滝を「鳴滝」と呼ぶことにした。それからこの付近一帯は、「鳴滝の里」と呼ばれるようになったと伝えられている。
「鳴滝」という名前にこめられた当時の人々の防災の考え方。いまはすっかり忘れられているこの逸話を「鳴滝」という美しい名前とともに、この地を訪れる各国のみなさまにも、観光とともに持ち帰っていただけたらうれしいです。
平安時代には、なくてはならない禊(みそぎ)の場だった鳴滝
禊(みそぎ)は、身を清めるための儀式で、「穢れ(けがれ)」を洗い流し、神聖な状態に戻ることが目的。神社の参拝や祭り、特定の宗教行事の前に行われることが多く、清浄な状態で神々と対話するための準備とされている。この鳴滝は平安時代は、代表的な禊の場だったらしい。心身を決め、神社にお参りする風習だった。
松尾芭蕉の句碑「梅白し きのふや鶴を 盗まれし」
芭蕉が豪商、三井秋風の京都鳴滝別邸に招かれたときの挨拶句。この前書きに「京に上りて三井秋風が鳴滝の山家を訪ふ 梅林」があるそうだ。
芭蕉は42歳の時、鳴滝にある三井秋風(みつい しゅうふう:俳人/商人)の山荘を訪ね、咲いていた白梅にかけて詠んだ歌である。白梅が見事に咲いて、宋代の詩人・林和靖(りん なせい)の庵に居るよう心地がする。けれど、(彼とともにいるはずの)鶴の姿が見えない。もしかしたら昨日にでも盗まれてしまったのだろうか。と詠んだ句だという。林和靖は、梅を妻に、鶴をわが子に見立てて大切にし、生涯独身で通したという逸話があるそうだ。周山街道、右京区鳴滝に残る「芭蕉の句碑」には、「枯魚堂九世小川峰秋」建立の裏書がある。
このころの芭蕉は、旅をしながら歌を詠んだ西行に憧れ、俳諧の道を深めようと、亡くなった母の墓参りも兼ねて伊賀上野や奈良・京都・大津・大垣などへと旅をしたそうだ。その出立時には「野ざらしを 心に風の しむ身かな(今度の旅で行き倒れて野ざらしの骨になろうとも、それを覚悟している)」と詠んだ旅の句。その後、「野ざらし紀行の旅」として発表された。かの奥の細道の旅を想像するが、それはさらに年を重ねた後のことである。
鳴滝の桜のトンネル
桜は大正15年(1926年)、京福電車の北野線の全開通を記念して植栽
北野線の鳴滝~宇多野間の200mに約70本の桜並木。毎年桜の季節には電車内から桜を眺める乗客と、路線内から桜と京福電車をカメラにとらえようという人たちで大賑わいになる。
京の師走は鳴滝の了徳寺、通称大根焚寺の大根焚で息災を願う。
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京都市右京区鳴滝にある真言宗大谷派のお寺、了徳寺(りょうとくじ)、山号を法輪山(ほうりんざん)。ここは京都の師走に無病息災を祈る大根焚きの行事で知られており、通称、大根焚寺とも呼ばれている。
その由来は鎌村時代、建長4年(1252年)、親鸞が愛宕山中の月輪寺の帰りに鳴滝で説法をした。それに感銘を受けた里人が何ももてなすものがないので、塩炊きの大根を馳走した。それに応えて、親鸞はすすきの穂を筆代わり束にして、「歸命盡十方無礙光如來」の十字名号を書いて、その礼とした。この故事に因んで行なわれる報恩講、通称が大根焚きだと伝えられている。
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