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平安京の荘厳な世界。いまこそ、西寺の復活を…

祖父の不動産がある南区唐橋は、盛大な祭りが有名だった。ある年の春、幼いわたしは母と祖父に連れられて唐橋の西寺公園に行った。この祭りのことは、以前記事にしたことがあるが、成長してからこの祭りを司る家系の方とお目にかかり、あらためて詳しく教えていただいた。この祭りは1000年の歴史があり、平安時代にまで遡ることができるそうだ。あの松尾神社の神輿6基が桂川をわたる船渡御(ふなとぎょ)の荘厳な行事はことさらよく知られている。勇猛果敢な男たちが水しぶきをあげて神輿の渡りを取り仕切り、いくつかの行事を経て、西寺公園に神輿がやってきて華やかな祭りとなる。そもそも、西寺は平安京の右京九条一坊にあった官寺。羅城門の西側に位置し、羅城門をはさんで東寺と対をなしていた。現在の跡地は、京都市南区唐橋西寺町に「西寺跡」として国の史跡に指定されている。

西寺は東寺と同様、天皇の国忌を司る官寺の役割を担っていた。加えて外国使節を迎えする施設としても重要だったらしい。

東西両寺の造立がいつ頃始まったかは定かではないが、嵯峨天皇の時の弘仁14年(823年)、東寺は空海、西寺は守敏に下賜されたとされる。その後、天長9年(832年)には講堂が完成した。後に貞観6年(864年)頃、薬師寺から僧綱所が西寺に移転された。醍醐寺縁起には延喜、6年(906年)に聖宝が西寺別当となったという記述があり、西寺の整備を行ったとある。西寺は東寺と同様天皇の国忌を行う官寺の役割をもっていた。また律令機構の一端を担う鴻臚館として外国使節接遇の施設であったという説もある

正暦元年(990年)に火災があったが、ほどなく再建されたといわれている。建久年間(1190年代)には文覚が塔の修理を行い、その建築作業はのちの明恵上人が見学したと伝えられている。しかしその後、再建された塔も天福元年(1233年)に再び焼失、以降に廃寺になったと考えられている。けれど、たなかしげひさ氏は『二水記』に「西寺に陣を敷いた」という記録があることから、戦国時代中期頃まで西寺は存続していたと推測している。

西寺の衰退原因は立地の水はけが悪く、たびたび暮らしに影響を与えたそうだ。それで平安後期には住民がいなくなり、地域の環境が悪化た。こうした理由から、朝廷の支援が受けられなくなったとも伝えられている。

国の史跡「西寺跡」

西寺の跡は大正10年(1921年)に国の史跡「西寺跡」(さいじあと)に指定された。昭和34年(1959年)からの発掘調査により、金堂・廻廊・僧坊・食堂院・南大門等の遺構が確認され、当初の未指定部分が昭和41年(1966年)に追加指定された。こうした調査の結果、在来の土壇は講堂跡と判明した。東寺とあいまって平安京の規模を知る上でも非常に重要だとされている。


西寺公園の史跡

現在は発掘時出土した金堂礎石の一部が残るのみで、京都市立唐橋小学校の敷地や、講堂跡の年公園唐橋西寺公園になっている。塔跡は、唐橋小学校の敷地付近だが、礎石等は地下に埋もれている。残念ながら、小学校造成時までに破壊されたのか、確認できていない。そこで令和元年(2019年)秋頃に推定地の発掘調査が予定されている。(平成末期の情報による)史跡指定地は唐橋小学校敷地、唐橋西寺公園敷地、同公園以北・東寺通以南の民有地と、これらの西側の道路を含む。

西寺の跡地、西寺公園の史跡のあるコンド―山に、1000年以上の歴史がある松尾祭の神幸祭の荘厳な行事ー神輿が桂川を渡る伝統行事が、いまも毎年続いている。それについては、以前にご紹介した下記の記事をご参照いただきたい。

京都駅には、実物の10分の1サイズの羅城門が展示されている。こんなに小さな羅城門でも、当時の威厳が伝わってくる。


羅城門の再現を目的に、NPO法人「明日の京都 文化遺産プラットフォーム」が発足となった。2016年にJR京都駅の北側に実物の10分の1サイズの羅城門の模型が設置されている。羅城門を挟んで左右に作られた東寺と西寺。令和になってからも、史跡、西寺跡の発掘調査が再開された。文化財の現場からシリーズvol.2「眠りから覚めたコンド山~西寺講堂跡発掘調査~」で文化遺産が実証されている。羅城門とともに、いつか西寺が再建となることを願ってやまない。


登録:京都の文化遺産
https://www.youtube.com/watch?v=J1eLqcjIewM&t=111s

羅城門を再現へ協力呼びかけ 京都のNPO法人


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