京風うつくし図鑑-2 [京のゆうれい話]#2
京都は長く都だったので、権力闘争から戦になることも少なくなかった。歴史の表舞台に隠れるように、悲しい物語が語り継がれてきた。伝わる過程であるものは悲しい物語に、あるものはゆうれい話として伝わったようだ。もののけも、かつては魂が宿っていた生活者だったかもしれない。あまりに理不尽なことがあると、あるところに留まるのか、あるいは後世の者が哀れに思い、悲しい物語を次世代に残したのかもしれない。京都に残る物語をよみといて、京都の物悲しい抒情詩を感じていただけたらと思う。
「せをはやみ いわにせかるるたきがわの われてもすえに あわんとぞおもう」
百人一首に詠われた崇徳天皇の和歌。歌人としても活躍した天皇である。元号が明治に変わる2日前、明治天皇のたっての希望で崇徳天皇の御霊が讃岐(香川県)から京都へ遷された。崇徳天皇は平安末期に活躍したが、怨霊として歴史上最大の猛威をふるったとされる数々の伝説が伝えられている。優雅な歌人として活躍した崇徳天皇がどうして怨霊になったのだろう。そして明治天皇のたって希望とはどんなものだったのだろう。
後白河天皇と崇徳天皇、兄弟の諍い。藤原氏と源平の保元の乱に
平安時代、鳥羽法皇が亡り、いろいろな理由から排除された元天皇、崇徳上皇と後白河天皇が争うことになる。この2人は実際は大叔父と甥の関係だが、家系図上は兄弟になるこのふたりの争いに藤原氏や源氏・平氏をも巻きこんだ戦争が勃発。保元の乱である。戦の背景には、おどろおどろしい家系図や親兄弟の関係から戦になった。歴史にあるとおり、戦は後白河天皇側の勝利となった。敗れた崇徳上皇は四国・讃岐の国に送られたのだ。当時、遠く讃岐の地は京から遠く、外国のようなものだったのだろう。この地で第二の人生を送る崇徳上皇の心のよりどころは、和歌と仏教だった。百人一首に編纂されたあの和歌「せをはやみ~」を詠んだのもこの地だったといわれている。
瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の
われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ
現代訳:
川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が2つに分かれる。しかしまた1つになるように、愛しいあの人と今は分かれても、いつかはきっと再会しようと思っている。
誠意を後白河天皇に踏みにじられ、呪いの言葉を残して世を去る崇徳天皇
崇徳は心を入れかえようと写経にいそしみ、何百巻という写本に挑む。その写本を京の寺に納め、世の平安を願ってほしいと朝廷に献上。ところが後白河天皇はせっかくの写経を「崇徳のお経には、呪いが込められているにちがいない」と解釈し突っ返す。
誠意を込めて精進した思いを踏みにじら、崇徳は抑えてきた怒りを爆発させる。自らの舌先を噛み切り、したたる血でこう書くのです。「我こそは日本の大魔王である。天皇をその座から引きずりおろす。そして民衆のなかから新たな王を生みだしてやる」という呪いの言葉である。
崇徳上皇の没後、次々おこる延暦寺、鹿ケ谷の不幸など。天皇家を襲った最悪の事態とは…
現世に怨みつらみを残したまま世を去った崇徳上皇。その死後、呪いは天皇家と京都にさまざまな不幸が襲いかかる。延暦寺は不幸にも安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった動乱が続く。さらに勝者の後白河天皇に近しい人々が次々と亡くなる。しかしそれは不幸の前兆に過ぎず、この後、天皇家にもっとも不幸なことが起こる。
こうして武士の時代が700年つづく
それは鎌倉幕府の誕生。幕府創設は政治の実権が天皇から一般大衆に過ぎない武士に移った。つまり、崇徳の呪いの言葉「皇を取って民とし民を皇となさん」が現実のものとなったわけだ。この時代、貴族は武士を野蛮人としてひどく見下していた。その野蛮人が政権を奪わったのだから、青天の霹靂だったのだ。朝廷は崇徳の呪いのパワーを恐れ、怨霊の鎮魂に励むが、すでに手遅れ。この後、700年にわたり武士による政権が続くのである。
明治の2日前、明治天皇が崇徳を讃岐から京に戻し、魂を鎮魂した
さて、時は流れ、江戸末期。大政奉還となり、700年ぶりに政治の実権が天皇の手に戻ろうとしていた。天皇の脳裏をふたたび崇徳の呪いの言葉がよぎる。この呪いを解き、新しい時代を開こう明治天皇は、崇徳が眠る讃岐に使者を送った。崇徳の墓前にて「申し訳なかった。我々が悪かった。京都にお住まいをご用意したので、どうかお戻りいただきたい」と謝罪。、御霊を輿に載せて、京都に移っていただいた。これが明治維新2日前のことである。
崇徳の霊を祀るため、白峯神社が京都に建てられた
崇徳の霊を祀るべく京都に建てられたのが白峯神宮なのだ。現在も堀川通今出川を東に入ったところに、崇徳天皇はひっそりと眠っておられる。明治天皇が崇徳天皇の御霊を京都に移し、神社を建て、魂を鎮魂した。こうして京都は、静かな平和を得たのだと信じたいものである。