【家族】
2024年が始まった。
暮れに父が亡くなり、父の居ない鹿児島へ行くのは初めてだか、今までと何の変わり映えもしない移動日。
思えば毎月の鹿児島通いが始まったのは2004年。
今年は20年目に突入する。
10年前に母が亡くなり、暮れには父も旅立ち、実家は東京の妹に譲るので、鹿児島には、寄る辺が失くなる。
「お父さんがもうおられないのに、
鹿児島へ行くの?」
そう尋ねられたので、
「仕事があるから」
と答えているけど‥、ずっと昔小さな家族だった人たちが誰も居なくなった鹿児島へ、私はなぜまた
今月も行くのだろう?
「故郷だから」
という感情は正直無いな〜。
むしろ‥。
生まれ育ったのは確かに鹿児島だ。
でも、たった20年しか鹿児島では暮らしていない。
それなのに、父と母と妹と、たったそれだけの小さな家族で暮らした20年が、なぜ私にはあんなにも重くのしかかっていたのだろう。
父が亡くなったことで、何か胸につかえていた塊が無くなり、この歳になって初めて「鹿児島」と向かい合える気がしている。
2004年に母が最初の入院をして介護帰省が始まった。
当時は2人とも70代後半だったが、
母は体力が無く身体が弱かったせいもあり、朝の味噌汁を作るのもシンドイと言う。
フリーランスの身ゆえ、それまでは帰省してもよほどのことがないかぎり3日で横浜の自宅に戻る帰省だった。
救急車で母を病院に運び、チラつく雪の中を父はコートも持たず自宅へ帰ったらしい。
入院した母が自宅に戻れるのは10日以上後という。
さすがの父から
「あんた、帰ってきてくれんね」
と泣き言が入り、私は実家を出てから30年ぶりに両親と2週間は暮らす覚悟で鹿児島へ向かった。
母が退院するまで市役所の窓口を回り、介護申請をした結果、公的援助は受けられないことがわかった。
「高〜〜い介護保険料をずっとずっと払ってきたのに、市にはな〜〜んにも、な〜んにもしてもらえないんですね‼️ね💢💢」
窓口でいくら吠えても要支援認定不可の判定が覆るワケも無く‥。
ところが、公的支援を諦めて30年ぶりに両親と2週間暮らしてみると、
「なぬ?お父さんって、こんなことしてんの?」
「は?お母さんて、こんな料理の仕方するワケ?」
と、親の日常をつぶさに見て、
私はホントの意味で両親のことをほとんど知らないな〜と痛感したのだ。
そして、父に反発して生きてきた私は、常に父に怒られないように父にアンテナを張って暮らしてきたせいで、
母親にほとんど関心が向いておらず、このまま母親に死なれたら、母のことをほとんど知らずに別れることになる。
いや、死んでしまったら、もう何を聞きたくても応えてもらえない!
それは残念だな、と気づいたのです。
そこから毎月の鹿児島通いを決意し、
鹿児島で仕事を作り、20年通ってきたわけだが、おそらく、いずれ、
これから私も認知症になって老人ホーム暮らしをするだろう自分のために、
【備忘録】を残してしておこうと思う。