「読みたい」と思われる才能
飽和の時代である。
モノは溢れかえり、インターネットにも情報は氾濫している。
現代において、僕たちは常に何かの情報の消費者である。
手元のスマホには宇宙が広がっている。本屋で、平積みにされた本に手を伸ばすこともあるだろう。あるいは、未だにテレビを付けることもある。
だから、僕たちが何か文章を書くとき、読者から「読みたい」と強く思われなければ、一生誰にも読まれることはない。
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偉大な作家であれ、条件は同じである。
このnoteには、よしもとばななさんや、平野啓一郎さんといった世界的作家も参加しているようである。
インターネットにおいては、プロアマ関係なく、全く同じ土俵で、全く同じ条件で、作品を生み出す必要がある。
チャンスは誰にでもあるし、逆に言えば、自分に与えられたそのチャンスは、限りなく小さなものと言えるかもしれない。
しかしだからといって、紙書籍が読者の獲得に有利なのかと言えば、そうでもない。毎月大量に生み出される紙の本も、多くは読者の目に触れぬまま消えていく運命にある。
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結局のところ、媒体は関係ない。
本であれ、インターネットで書く文章であれ、「読みたい」と思われないと勝てない。
それははたして、何か?どのような才能なのか?
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本でもインターネットでも何でもいい。あなたが何かを「読みたい」と思ったとき、その文章はどのようにあなたの目に映っているだろうか?
キラキラと輝いているだろうか?何かの役に立ちそうだったのだろうか?もしくは、タイトルに釣られただけ?あるいは…。
他人が文章を読む理由と、自分が文章を読む理由とは、必ずしも同じではないだろう。
しかし、ベン図の一致した部分のように、どこかで重なる部分はあるはずだ。
それを考え抜いて、考え抜いて、文章を書く。とても知的で、タフで、やりがいのある取り組みだ。
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「読みたい」と思われる才能とは、結局一言で表せるものではない。
それは、一人の書き手が考え抜いて書き上げた文章の片隅に、差し込む一筋の光のようなものである。
言葉では表現できない。でも読者は、なぜかそれを「読みたい」のだ。
もし、この文章をいま(まさにこの瞬間に!)読んでくれている人がいるとしたら、僕にも少しだけその才能があると言えるのかもしれない。それはすごく、幸福なことだ。
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この「読みたいと思わせる才能」であるが、もう少し抽象化すると、「無くても困らないものをほしいと思わせる才能」とも言える。
僕たちは満たされている。
そして、そんな中で、クリエイターやアーティストは、何をどう作っていく必要があるのか。
その意味を今、問われている。
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