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12年ぶりに弟と会った話

この記事は、コーチングスクールTHE COACH ICPの企画「アドベントカレンダー夏2024」のために書いています。
テーマは「陽炎」。
2024年の夏、陽炎のように浮かんだ、私の思い出とは。

他にも素敵な記事がありますので、下記をぜひご覧ください。



私には弟が2人いる。ううん、正確には「いた」。
下の弟は19年前に亡くなった。だから、私には弟が1人いる。
でも今も生きている上の弟とは、気づくとずいぶん長く会ってない。
これは5月に弟と12年ぶりに会った時の私の気持ち。


父の入院

大阪の母から、電話で父の入院を知らされたのは3月末のことだった。
父は今年で80歳。
もう1ヶ月も入院している、ということに驚いた。
2月の終わりに急に立てなくなり、2日も家でウンウン唸った挙句、救急車で運ばれたとのことだった。

離れて暮らしている家族が入院したら、知らせてくれる家庭が多いんじゃないかと思うけど、我が家の親は知らせてこない。「子どもに迷惑をかけちゃいけない」っていう思いが強いみたいだ。昔だったら「1ヶ月も黙っていたなんて」と怒ったと思うけど、私の怒りの奥に「淋しさ」があるって、自分の気持ちを感じ取れるようになった今は、「母の思いやりなんだなぁ」と静かな気持ちで受け止められた。

問題は、最初は倒れて身動き取れなかった父の体力が、回復してきたのはいいけれど、ストレスが溜まりすぎて、看護婦さんと喧嘩しているらしい。病院が困って、母のところに電話がかかってくるのだという。父はどちらかというと、温厚で陽気な人柄なので、母の話を聞きながら、父が認知症にかかっている可能性が心を掠めてm気持ちが暗くなった。

ちなみに倒れた理由はわからない。救急車で運ばれた病院の機械では、検査に限界があり、一週間後に別の病院で精密検査をする予定とのこと。
母が「看護婦さんと喧嘩して迷惑だし、1回退院しようと思うけど、お父さん、検査に行きたくないって言うねん」と、心細そうに言う。

想像してみる….倒れたのに2日も救急車を呼ばなかったほどの病院嫌い。
家で寝ていた2日間は、全く身動きできなかったので、布団に全て垂れ流していたらしい…

(ダメだ…拒否されたら連れて行く自信がない…)
そう思った私は、母に「D(上の弟の名)にも来てもらえる?私だけじゃ説得できないよ」と自然に弟の名前を出していた。

「そうやなぁ…Dにも来てもらおうか。1回電話してみるわ!」

こうして父の精密検査の日は、バラバラの家族が揃い、総力戦で挑むことになった。

12年も会っていない弟

弟は関東の、とある県に住んでいるので、神奈川住みの私とは、距離が近い。
にもかかわらず、12年も会っていない。なんで、そんな正確に会っていない年月を覚えているのかというと、前回会った時に、iPhone5を買いに一緒に行ってもらったからだ。私にとって初めてのスマホで、心細かったから、大阪に帰省した時、同じく帰省していた弟について来てもらった。その頃は、帰省の時期も合わせていた。今、思い返すと、姉のスマホ切り替えについて来てくれるなんて、優しいやつだなぁ。

それが、なんで会わなくなったんだろう?
たぶん、私が良くなかったんだと思う。弟は、大学を出た後、就職氷河期で正社員になれず、アルバイトをしたり、家にいて資格勉強をしていたりした。私は、それを見守っていれば良かっただけなのに、良かれと思って、あれやこれやと口出しをしてしまった。

12年前の私は、とても未熟な人間だった。
悩み苦しんでいる人が目の前にいる時、「助けてあげたい」「問題を解決してあげたい」と言う気持ちは、とても自然な気持ちだと思う。相手が悩んでいる姿を見て、反射的に体が動いてしまうこともあるだろう。

その時の私の失敗は、相手の不安より、自分の不安に突き動かされて、関わったのが良くなかったのだと思う。「あぁしてみたら?」「こういう道もあるよ?」というアドバイスは、私の中の不安、例えば「弟は1人寂しい老後を送るという妄想」に基づいていた。
だから、とても鬱陶しかったのではないか。
いつしか、メールを送っても、返信が来なくなり、「私に会いたくないと言うことなのかな」と察した私は、弟と帰省の時期をずらすようになっていた。

今から思えば、ただ見守れば良かったことだった。
相手がサポートが欲しいタイミングを待つ。
これって本当に難しい。

精密検査の日

父の精密検査の日、早朝の新幹線で大阪の実家に向かう。

新幹線の中で母からメールが届く。
「お父さんが行きたくない、病院に行かないでこのまま死ぬって言ってる。布団から出ない」
やっぱり…思っていた通りの事態になって、しまった。
人の意思を変えることほど、難しいことはない。改めて、「病院に連れて行けるだろうか?」と暗い気持ちになりながら「わかった」と返信した。

今日まで電話を何回かかけて、父に直接、「ガンの検査は、皆がしていること、皆んなが乗り越えていることで、痛みが無いよう技術が進んでいること」を伝えてきた。けれども、「ううん、ううん」と唸るばかり。
何がそんなに嫌なのか教えてくれない。

何の病気なのかわからないから、検査して治療したら、また元気になる可能性もあるだろうに、と思う。父の本当の気持ちは、教えてもらえないからわからないけど、「検査の結果、重大な病気が見つかったら、耐えられない」、それが心配なのかな、と想像した。

希望が見つかるとは限らないもんね、その不安は、乳がんの闘病をした私も理解できる。少し、わかってあげられる部分、父とつながりを感じられる部分を心でなぞって、気持ちを落ち着かせた。

大阪到着後、在来線を降り、下町のごちゃごちゃ感を味わいながら、段々と体が緊張してくるのがわかる。

父を病院まで連れて行けるのかの不安…
そして弟と12年ぶりに会う緊張。
どんな見た目なのかも、全く想像できない。

心が落ち着かないまま、実家に着き、持っている鍵で扉を開ける。
1階にいた母が、私を出迎えつつ、「お父さん、2階で寝てて、布団から出てこうへんねん」と困り顔で言う。

(こんなにみんなを困らせて)って怒りが、アドレナリを伴って出てくるのを感じて、自分に(冷静に)と声をかけつつ、階段を登る。

目の前の踊り場の、左の扉は父の部屋。
右の部屋は来客用の部屋。
私の足音を聞いて、右の扉が開き、弟が出てきた。
「起こしてるねんけど、あかんわー」

声は全く変わってないし、見た目はふっくらして年をとっているけど、それぐらいしか変わっていない。
優しい話し方も変わらない。きっと優しく父に声をかけてくれていたんだろう。ありがたさを感じながら、(私が優しいバージョンじゃないのをやるしかないなぁ)と覚悟を決めて左の扉を開ける。

部屋の中は真っ暗で、布団を頭の先まで引っ被って父が寝ているのが見えた。

なんだか小さな子どもみたいで、おかしさも感じながら、私は家の固定電話の子機を手に取る。

「お父さん…」
「ワシは、もう病院には行かん!」
「これを見て」と言いながら、電話機の子機を見せる。
「お父さん、今なら、お父さんはタクシーで病院に行けるよ…でも嫌なら救急車を呼ぶ。どっちがいいのかな?」

心の中で(この方法が本当に良いのか?優しく諭す、説得する、じゃなくて…?)という迷いもあった。でも(病院の予約時間が迫っている今はこの方法しかない)と改めて判断して「頑張れ!」と、心の中で自分に声をかけた。「今はこれを選択するしかない」とも。

「お父さん見て」
子機のボタンを押す。「ピ!」と音がなる。
もう1つ。
※本当に救急車を呼ぶ気持ちはなかったです

「わかった、わかったー!」と父が布団から顔を覗かせたところで、部屋の電気をつける。
「お父さん、着替えよう」と声をかけ、部屋の外にいた母と弟に「お父さん行くって」と声をかける。

布団の上に渋々、座り直し、着替えを手に取った父を眺めながら、安堵を感じつつ、「背中を押して欲しかったんだろうな」とか、「本当にこのやり方で良かったのだろうか」と複雑な気持ちを抱え、病院に出発した。


タクシーで向かった市立の新しい病院は、大きく綺麗で、そんなに待たなくても良く、快適だった。

検査をしに行くつもりで行った病院だったけど、実は事前の説明、インフォームドコンセントをするだけの日だった、というのがわかって拍子抜け。ただ入院説明を聞きに行くだけだったのに、こんなにすったもんだしていたのだ。
父は先生や看護婦さんとのやり取りで、スムーズにいかないところもあり、やっぱり認知の面で心配だったけど、だんだんと調子が出て、冗談を飛ばすのを見て、安心もした。

病院で父に付き添いながら、私は弟の顔をチラチラ見ていた。
待合コーナーで、前の椅子に座っている弟の頬のラインを後ろから見ると、体重が6〜7キロくらいは、増えているのではないか。赤ん坊のような頬になっていて、いい加減良いおじさんになっている弟のことを「カワイイ」と思ってしまった。

診察が終わった後、両親は、家にあるものを食べる、と言うことなので、2人と別れ、弟と私だけで、寿司屋にランチに行った。

「次の検査は親だけで行けるかな?」と問うと、「いや、無理じゃない。俺じゃダメだからお姉、また来てよ」と言う。
「いや、Dが来てくれて私はありがたかったよ」と言いながら、しっかりやり取りしてくれるのが、とてもうれしい。
過去のことには触れず、今の仕事や人間関係にも触れず、ひたすら父母か、お互いにわかるマンガやアニメの話をしながら、気づいたのは、「私、心細いと感じていたんだな」ということ。実家のことを一緒に自分ごととして考えてくれる人が欲しかったんだなぁって。

陽炎のように立ち上がってくる思い出

神奈川の自宅に帰ってから、自然に思い出されたのは、弟のまぁるい頬のラインだった。
いい大人に失礼かもしれないけれど、「赤ちゃんみたい」と可愛く思った。

陽炎のように、ふわふわと立ち上がってくる思い出がある。
幼い頃、2人でやったおままごと。私がお母さんで弟が赤ちゃんで。
弟は、3、4歳じゃなかったかと思う。もう言葉をしっかり話せていたのに「赤ちゃんはバーブーとかしか喋れない」と私が言って、「バーブー」と喋る設定だった。あの時の、頬の丸さとオーバーラップしたんだと思う。


弟は、高校生から不登校になり、学校を中途退学。
長く自宅に引きこもっていた。
私は、弟の将来を、私が担わなくてはならないかも、と思い、重荷に感じている時期があった。私の将来を邪魔する存在なようにも感じていた。

だから、今、「弟を可愛く思える」という気持ちがとても嬉しかった。
家族という、本当は大切な存在を、愛おしく感じられる自分になれていることが実感できて、とてもうれしかったのだ。

あの頃の私は、余裕がなかった。
未熟だった。
大切な存在を大切だと思えなかった。

少し、少し、変われているのかもしれない…
そう思えた。

エピローグ

父の検査当日は、また、私も付き添った。検査結果は前立腺癌がかなり進んでいたが、その後、ホルモン治療が奏功して、体調はとても良いみたい。

会った直後、6月に、弟には、「両親の傘寿のお祝い、一緒にしない?」とメールしたら、返信が返ってこなかった。
なるほど、これは嫌なのか。

8/9の彼の誕生日には、ダメ元でお祝いメールを送ってみた。

一言だけ、返ってきた。

地震怖すぎた。

原文を変えています

本当だね〜、怖かったね、と返信できることのうれしさ。
心細さは、この12年、ずっとあったのかもしれない。

私たち兄弟は、亡くなった弟も含めて、幼い頃、父が大好きだったんじゃ無いかと思う。
父はいつも明るくて、子どもと遊ぶの好きだったから。
肩車してもらったり、相撲を取ったり。体を使って遊んでもらっていた。父が夜勤から帰ってくるのが待ち遠しかった。

私や弟は、ままごとや相撲をしていた頃の父母よりも年をとり、下の弟はもういない。変わらないものなんてないんだ、という感慨が湧いてくる。
父の病気や、年をとってからの頑固さは、喜ばしいことでは無いけれど、もう1度、家族を結びつけるキッカケになってくれたのだと思う。
父にも、母にも、弟にも、感謝だなぁと思う。


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なぜコンパッションなのか?
良かったら自己紹介もお読みください。(ただ、内容が重いので心身の調子が万全な時にお願いします)


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