「勝浦川」その21.日本農士学校
「東洋倫理概論」
敏雄は、その書名に堅苦しい厳めしさを想像したのだったが、言葉の厳密な意味を理解出来ぬまま読み進むうちに、“概論”という言葉から受けた印象とは程遠い神聖で詩的な美文に魅了され、貪るように読んだ。
敏雄は、著者の安岡正篤という人を知らなかった。
東洋の哲学を勉強した叔父に訊くと、高名な陽明学の先生だと云う。
神田神保町の崇文荘書店という古本屋で購入して持ち帰った書籍のなかでも、敏雄にとって安岡正篤著「東洋倫理概論」は特別な本になった。だが、哀しいことにその文章の意味するところが理解出来ない。
敏雄は、理解出来ていないにもかかわらず渓水倶楽部の勉強会で「東洋倫理概論」について話したくなった。話はほとんど本の引用だったが興奮して喋った。仲間から「ほなけんど、陽明学ゆうんはなんなんな?」と訊かれると「王陽明ちゅう人の学問やわい」と間抜けな答えしか出来なかった。
安岡正篤は、昭和21年(1946年)以降、公職を追放された身だった。
安岡は、大正11年(1922年)10月小石川区原町に在った酒井忠正伯爵邸に「東洋思想研究所」を設立し、昭和2年(1927年)には同所に金鶏学院を創設して陽明学を説いた。この金鶏学院で学んだ者たちのなかには、昭和維新を唱え血盟団事件を起こした者たちもいたが、安岡が活動を主導することはなく「白足袋の運動家」などと呼ばれた。
安岡が25歳のとき、海軍大臣を務めた当時63歳の八代六郎海軍大将が安岡に弟子入りしたという逸話があるが、安岡にこの類の逸話は枚挙に遑がない。
昭和20年(1945年)8月15日に玉音放送された大東亜戦争終結ノ詔書、所謂終戦詔書に「朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」という一文があるが、「萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」の部分は安岡の草案が採用された。しかし、安岡はその前置きとして「義命ノ存スル所」という文言にこだわったのだが、閣僚会議において「時運ノ趨ク所」と変更されてしまい、安岡は生涯を通してこの一事を痛恨の極みと憤った。
昭和21年(1946年)公職追放となった安岡正篤は、埼玉の嵐山町に在った日本農士学校に隣接した林の中に居を移していた。日本農士学校は昭和6年に安岡が農村の指導者養成のために創った学校である。
安岡の「東洋倫理概論」をより深く理解したかった敏雄は、思い切って日本農士学校に手紙を出した。するとそれが縁となり安岡の弟子で安岡に代わって日本農士学校校長を務めていた伊藤千春がわざわざ横瀬町まで講演しに来てくれた。
伊藤の講話を聴いた敏雄は、安岡や伊藤から薫陶を受けるべく、昭和23年(1948年)日本農士学校の門を叩いた。
或る夜のことだった。日本農士学校の寮の窓から見える安岡の庵には灯りが点っていた。
暫し逡巡したが、意を決して敏雄は独り安岡の庵を訪ねた。
弟子の唐突で無礼な深夜の訪問にもかかわらず、安岡は敏雄を書斎の小さな炬燵の中に快く招き入れてくれた。深夜の庵には穏やかだが静かな緊張感が漂っている。
敏雄は頭の中で何回もくり返していた問いを安岡にぶつけた。
「先生、私はこれから如何に生きるべきでしょうか?」
それは、飾ることもなく真正面に投げられた直球の禅問答のような質問だった。
すると、安岡はしばらく腕組みをしながら考えて、穏やかに応え始めた。
「君の人生の物語は君自身で創ってゆくものだよ。従ってこれから君は人生の一日一日、一歩一歩を深くよく考えて歩いてゆきなさい。将来君が晩年に至ったときに、数十年間考えに考えて歩いてきたその道を振り返ってみて、そこに残された自分の足跡が、君がいま私に質問した“人生如何に生きるべきか”の君自身が出した答えだ。尚、道を踏み間違う事がないように、常に懐に本を持っていて参考にすることだよ」
参考:安岡正篤著「東洋倫理概論」
参考:塩田潮著「昭和の教祖安岡正篤」
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