侵攻してきたロシア兵に向かって、ひまわりの種を渡そうとするウクライナの女性の動画を観た。 この地で戦死して土になったら花を咲かせられるように、ひまわりの種をポケットに入れておけと言うのだ。 それで、映画「ひまわり」を想い出した。 ソビエト連邦時代にのウクライナで撮った映画のひまわり畑。 主演したマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレン。そして、リュドミラ・サベーリエワ。 ヘンリー・マンシーニの音楽。 ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品。 特筆すべきは、冷戦下
新型コロナウイルス感染症が蔓延しこれまでに世界中で600万人近い死者を出し、いまでも世界中の人々がその影響下で苦しんでいる。地球温暖化は深刻で世界中で大災害がつづいている。民主主義を踏み躙って人間のささやかな自由すら暴力で奪う国々の現状もある。元々世界には病や暴力や貧しさに耐えている人々や孤独な中にある人もいるのだ。みんな眠れない。長い長い夜を覚醒し苦しみながら耐えながら過ごしている。それなのに戦争を始めた奴がいる。世界の長い長い夜は更に長くなった。 だがプーチン、これでお
平成29年(2017年)、極早生みかんが採れはじめた頃、敏雄は聖隷三方原病院のベットの上に居た。 敏雄の部屋の窓からは、17年前に亡くなった孝江が過ごしたホスピスの屋根が下に見える。だが、もう敏雄がその窓から下を見ることは出来なかった。それでもベットの足元に洗面台があり、その鏡に三方原の空が映って見える。 敏雄は丈三郎とゆきえの写真を見ていた。喜平と丈三郎が開墾したみかん畑で、休憩している両親を敏雄が撮った写真だった。「ようけ働いたなぁ・・・」と敏雄は呟いた。 両親であ
平成22年(2010年)の新緑の季節だった。 敏雄は里帰りしていた。 先祖の墓参りと、その墓仕舞いを頼むためだった。 兄の英雄夫婦には子がなかったから、家と畑と墓を継ぐ者はいない。 昭和37年(1962年)10月、父丈三郎は敏雄が初めての収穫を迎えたみかん園を見て、翌年11月に亡くなった。享年64であった。その丈三郎が亡くなってから、母ゆきえが墓参りしやすいように山に在った墓を家の近くに移した。 そのゆきえも平成元年(1989年)7月に徳島市内を見下ろす眉山の病院で亡くな
勤務する徳島県立果樹試験場は敏雄の実家からも近く、勝浦川沿いの丘陵地帯に在った。 敏雄と孝江は、昭和30年(1955年)10月7日に結婚した。 丈三郎は水田を売って勝浦川の傍らの土地を買い、みかん園を造り園内にみかんの貯蔵倉庫を建てていた。丈三郎は、その二階を改修して敏雄夫婦の新居を造った。 貯蔵倉庫の二階と謂えば粗末な部屋を想像するが、新築住宅のような贅沢な造りだった。丈三郎は敏雄の嫁を迎えるにあたり出来る限りのことをした。 丈三郎の家の二階で敏雄と孝江は結婚式を挙げた。
昭和26年(1951年)、22歳の敏雄は静岡県の興津に在る農林省園芸試験場に入場した。 果樹園芸について基礎から学びたいと思ったからだったが、徳島県知事に推薦されて研究生として入場することが出来た。だが、興津の試験場は各県から知事に推薦された者だけが研究生になれたから、皆各県を代表しているつもりだった。 そんな研究生たちは、興津の町では過剰に大切にされた。 どの店に入っても「お代は出世されてからで・・・」と云われた。勿論、そう云われて払わなかった者などいなかったが、それく
敏雄は、日本農士学校から戻った。 敏雄は、父丈三郎にみかん作りの修行をしたいと頼んだ。 山の畑のみかん作りは、いまでは丈三郎とゆきえと英雄の仕事だった。敏雄が加わることで捗ると思えたのだったが、体力には自信がある敏雄も農作業では父と兄に敵わなかった。 敏雄は日本農士学校で学びながら「みかん作りになろう」と思った。帰郷したら父に頼んで、一からみかん作りの修行をさせてもらおうと思ったのだ。 ところで、昭和20年(1945年)の敗戦の年は、朝鮮、台湾、満州などの食糧補給地を喪
「東洋倫理概論」 敏雄は、その書名に堅苦しい厳めしさを想像したのだったが、言葉の厳密な意味を理解出来ぬまま読み進むうちに、“概論”という言葉から受けた印象とは程遠い神聖で詩的な美文に魅了され、貪るように読んだ。 敏雄は、著者の安岡正篤という人を知らなかった。 東洋の哲学を勉強した叔父に訊くと、高名な陽明学の先生だと云う。 神田神保町の崇文荘書店という古本屋で購入して持ち帰った書籍のなかでも、敏雄にとって安岡正篤著「東洋倫理概論」は特別な本になった。だが、哀しいことにその文
敏雄の幼なじみのシゲちゃんが亡くなった。 シゲちゃんは、冷たい雨に長時間体を濡らしたことが原因で肺炎に罹った。だが肺の病というだけで周りからは「国民病」と謂れる病を疑われた。 家族は差別を受け人づきあいが出来なくなっていたし、身内でさえ肺の病であったことを気にした。 そこでシゲちゃんが亡くなって、シゲちゃんの父親が息子の幼なじみであった敏雄に密かに山でシゲちゃんを火葬してきてくれないかと頼みにきた。シゲちゃんく(家)には遺体を担いで山に登ることが出来る体力のある者はいなか
敏雄は、製材所に就職して木炭トラックの運転手の助手になった。 朝早く起きて、トラックの木炭に火を起こしタンクに水を汲んで注入してすぐ始動出来るよう準備をするのが助手の仕事だった。 トラックが筏流しや馬車に代わって木材を運搬するようになり、筏師や御者からトラックの運転手に職業が代替しはじめたのだった。 敏雄は働きながらも、この先どう生きていったらよいのか思案していた。 いっそブラジルにでも行こうか・・・。 子ども心にも、敵と戦って死ぬことが当たり前だと思っていたし、この国
勝浦川には、棚野と横瀬の間に横瀬橋が架かっている。 敏雄は、その横瀬橋の棚野側の袂に立って逡巡していた。 前年、敏雄は生きて帰ることはないと思って此の橋を自転車で渡った。予科練に入隊して特攻機で敵に突撃したいと父に告げたとき、父丈三郎はそれを許してはくれなかった。 昭和13年(1938年)に末妹が生まれたときも、母のゆきえが「勝子」という名にしたらどうかと提案したのだが、争い事(戦争)は好かんと言って「和代」という平和な名をつけた父であった。そんな父の反対を押し切って昭和
敏雄は、「トシオはわるそばっかししよる」と謂われていた。 町でも学校でも力が強く乱暴者だと思われていたが、それには訳があった。 尋常小学校に入学したばかりのときだった。 敏雄は小坂のコウちゃんという子と友達になった。或る時、コウちゃんと遊んでいて二人交互に馬跳びをしていたのだったが、敏雄が暫く遊んだので少し疲れて馬をやめた途端に、その馬を跳ぼうとしたコウちゃんが不意を突かれて跳ぶのに失敗し、敏雄におぶさる体勢になった。敏雄も驚いてコウちゃんが敏雄の肩から前に出した両腕を力一
丈三郎もゆきえも、毎日墓参りしてから山の畑に向かう。 喜平を埋葬した墓のネキ(傍ら)にアカシア(ニセアカシア)の白い花が咲いていた。 山の畑では、喜平と丈三郎が植えたみかんの花が芳香を放ちながら咲いている。その 喜平は、所謂“台湾旅行”から戻ってきてから熱心に山の土地の値段を調べ出した。そして山奥の土地を購入し「おまはん炭焼きと石積みしよって山拓くんじょ。いけるで?」と丈三郎に訊ね、丈三郎が「ほなけんど、山をどうしょんですか?」と訊ねると、喜平は、山にみかんの木を植えると言
昭和11年(1936年)皇道派の青年将校等による二・二六事件が起こった。内閣は総辞職し政党政治は終焉した。 東京でそんなことが起きていたとき、敏雄は尋常小学校の一年生だった。 家には、敏雄の祖父喜平をはじめ父丈三郎と母ゆきえ、兄英雄と妹の美代子、そして結婚前の叔父有(たもつ)と叔母つね子がいて賑やかだった。政信と弘(ひろむ)という叔父二人は家を出て暮らし、伯母は大阪に嫁いでいた。 そんな或る日の夕飯が終わったときだった。 敏雄は、箱膳に食器を納めると一枚の絵を取り出して喜
節分に産まれた子は敏雄と名づけられたが、敏雄はその名のとおり敏なること際立つ子だった。 生まれて半年も経つと這っていたし、或るときには家の前の道路に這い出したことがあった。 敏雄が生まれたころには道路も整備され筏流しに代わって木材を運ぶ馬車が往来していた。 折しも敏雄が道に這い出したとき馬車が走ってきた。赤ん坊に気づいた御者が咄嗟に手綱を引いたが驚いた馬の鼻息と急停止した車輪の音で周りの人々も異変に気づいた。誰しも赤ん坊は馬に撥ねられたか馬車に轢かれてしまったと思ったのだ
四国八十八ヶ所巡りの旅に出るからには、お遍路たちは皆それなりの事情を抱えていた。祈願成就のために歩く者もいたが、お遍路することで生きている者もいたし、不治の病を患っている者もいた。お遍路は死出の旅でもあったのだ。 ゆきえは、そんなお遍路たちを家に泊めることもあった。食事を与え夜具を敷いて世話をした。 ゆきえは、お遍路をお接待することが死んだ子の供養にもなると思っていたのだった。だから、喜平も丈三郎もゆきえがお接待をつづけることを何も言わずに容認した。 山の開墾は整地も済