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やらなければいけないこと か やりたいからやること か
むすめたちが大きくなってきて(中3と小6)
ある程度のこと、というか、だいたいのことは自分でできるようになった。
身の回りのことはもちろん、買い物だっていけるし、ともだち同士だけで出かけるし、ひとりで電車に乗って習い事にもいける。
親の出番はもちろんまだまだあるけれど、
親がやってもやらなくても大丈夫、
やるかやらないかは親に選択権がある、
ということも増えたなぁと思ってる
(子どものタイプとか、そのときの状況とか、家庭の方針とかによって違うとおもうから我が家の場合、というはなしだけど)
例えば、
今、娘(中3)は受験生で、週末は長時間の特別授業があって途中ごはん休憩が入るんだけど、この塾弁をつくるかどうか、毎回迷う。
だってコンビニで買ってもいい、
おいしいパン屋も近くにあるから、何か好きなの買っていってね、でもいいのだから。
特別おいしいわけでも豪華でもない弁当でも、
つくれば喜んでもっていってくれる(と思う)。
でも駅のパン屋のパンは美味しいし、コンビニのおにぎりも彼女は好きなはず。(そりゃあ、買っていくのは少々めんどうくさいかもしれないけど)
こうなってくると、
弁当をつくるかどうかは、つくらなければいけない義務とか親の役割というより、わたしがやりたいかどうか、「わたしの課題」なのだ。
きのうについては、そもそも塾だということすっかり忘れていて、朝になって、うおーもしかして弁当?どうしよっかなぁ、つくる?それとも今日はやめとく? って思ったんだけど。
冷蔵庫をみたらなんとか作れなくもない、
→ めんどうくさい、、とてもめんどうくさいけど、
がんばってるしなぁムスメ、ほかに何もしてあげれないしなぁ、やっぱつくるか、ってなる。
と、なると、
娘のために作る弁当ではあるけれど、
つくると決めたのはわたし。
めんどうくさいと思う気持ちは残りながらも、
この弁当つくってるのは「やりたいからやっていること」になる。
娘のために、を思っての、栄養とかバランスとか彩りを考えての ちょっしたとひと手間も、それはわたしがやりたいからやるのであり、
わたしの課題。
めんどうくさくはありながらも、やりたいのは私でしょ?選んだのはわたし、と思うことで、やらされ感なくその仕事(べんとうづくり)ができ、
娘に対しても、つくってやったよ感なく(笑)、
はいどーぞ、とさわやかに渡して送り出せる →お互い気持ちいい
ということが起きている。
やりたいからやってることだと思えない状況のときは、やらずにほかの手段を選べばいい。
だって無理してやってイライラしちゃったり、
不機嫌になっちゃうようであれば、
じゃあやらなくていいですからまじで。
コンビニで買えますしお気になさらず。
と思われる。わたしなら思う。
機嫌よくいられるかどうか、はその検討においてとても重要だ。お互いのために。
*
こう考えられるようになったのも、
娘たちが大きくなって親の「やらなければいけないこと」が少なくなってきたからなのかもしれない。
だって子どもたちが小さいときは
親がやってあげたり、一緒にやらなければできないことだらけで、
親として子どものために「やるべきこと」に溢れてた。
自分のやりたいことは何もできないよ、って思って苦しかった。
でも、じつはそのころだって、
娘のために、と思いながらも
わたしが「やりたいからやっている」こともあったんだよね、たぶん。
やらなくても大丈夫だったこともあったはずだし、やってあげたいのは自分、ってこともあったんだと思う。
それを娘のためにやっている、にすりかえて、
送り迎えをしているんだから
習い事をがんばってほしいとか
〇〇してあげてるんだから
〇〇をがんばれ
のように、
(今回の塾弁のはなしであれば
弁当作ってるんだから勉強がんばれよ、みたいに)
自分の課題 と
娘の課題 を
一緒くたにして、勝手にイライラしちゃってたこともあったよなぁと思い返してる。
あのころだって、
じゃあやらなくていいですからまじで、
という感じだったのだ、たぶん。
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