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長年抱え続けたモヤモヤを手放せたように思えていることについての検証

少し前に実家に行って、父と母に会った。

夫が事故に遭い、車に乗れなくなってからというものの、以前のように車で実家に向かうことがなくなったこともあって、久しぶりの実家。

わたしにとって実家は落ち着ける場所ではないので、足取り軽やかに向かう、ということはないのだけど、、会うたびにふたりは老いていて、行けば ああ来てよかったな、と毎回思う。


そういえば最近、親との関わりにおいて感情が揺さぶられることが格段に減ったように思えてる。

というのも、親との関係性におけるモヤモヤは、わたしにとって長い間(ほんとうに長い間)の課題。子どものときはもちろん、大人になってからもずーっと手放せなくて、もういいかげんなんとかしたくていろいろ学んできた。

その甲斐もあって、この何年かはずいぶん手放せたと感じていたのだけど、そうはいってもやっぱり胸には重い固まりのような感情があった。

それが今はようやく断ち切れたように思えている。

胸にあった固まりも、今は不思議なくらいすーっと小さくなった気がしている。

それは別に親が老いたから、という話でもないし、なんらかのアクションにより親と和解をした、とか、許せた、とかそういう話でもなくて、

いつのまにかどうでもいいこと化した感じ?笑


ああ、「どうでもいいこと」だなんて、、、

悩みまくったあのころのわたしがそれをきいたらどう思うことか。。

「どうでもよくないんだわ」
「どうでもいいことにしたくたって、できないんだわ!」と憤るかもしれない(遠い目)

もし、ここまで読んでくださった同じようなお悩みをお持ちの方がいたとしたら、、
どうでもよくないですよね、わかります、ほんとにわかります!

わかるのですが。

今は思えているのです、どうでもいいことのように。
これからのことはわからないけど(←疑い深いw)、少なくとも今は。



ということで、検証です。

それはいつからか、

と考えてみたんですけど、

夫の事故後にはもうそうだったように思う。
(というか、そのときからなのか?)

夫が命を失うかもしれない事故にあった=わたしの人生では最大のピンチな状況 だったわけだけど、

親を頼ろうとは1ミリも思わなかったし、なんの期待もしなかった。


実際、彼らは、多くの親がそうするだろうこと(わたしなら親として絶対そうすること)は、ほんとうに何もしてくれなかったけど(←さすがに心配はしていた)、それに対して怒ったり落胆することもなかった。

『ふつう親ならこうするよね、、
してくれていいはずだよな』
のように淡々と思うことはあったけど、
それに感情をもっていかれることがなかった。

あ、でも、期待をしない、という点については
これまでも期待はしていなかったつもり、だったのだけれど、、
その ”期待しないレベル”が違うといいますか。

『こんなことしてくれる筋合いもない人』に対して求めない、と同レベルに期待していない、みたいな感じ? 

ということは、
今まではやっぱり期待していたってことなんだな、と書きながら思う。

うん、期待してたんだと思う。

子どもだったあのころ願ったのと同じように

ほんとうはこうあってほしい、こうしてほしい

って、どこかで願っていたし、期待もしていたんだろう。


ということは、その期待をしないようにできていたなら苦しくなかったのかもしれない、という話なのだけど、

これはもう、、仕方なかったよね たぶん。。

どうしても期待してしまう、、それがそのときのわたしだったのだから。


じゃあ、なぜそれが変化したのか

夫の事故があったから?

確かにそれはある。

当時はほかに考えなければいけないことがいっぱいありすぎて、実際それどころではなかった。
わたしの中にはその感情を登場させるスペースの余裕はなかった、というのは間違えない。

でも、夫が回復が徐々に進み、わたしをとりまく日常は取り戻しつつある今も変わらず、あのころ抱えていた親に対する重い固まりの感情はわたしの胸に戻ってきていなくて、前のように親への怒りや落胆、といった感情に心を乱されることはないままキープ中w


さて、どういうことか。

わたしの仮説としてはこうだ。

■これまでの取り組み(自分に向き合って自分に気づく の取り組み)により
インナーチャイルドは十分といってくらい癒されてきたため、親への執着が薄れてきていた。もうタイミングはいつでもいいよ、という状態だった

■それなのに、
わたしったら手放したいと言いつつも
親に対するあれこれにフォーカスし続けて
そこにとどまり続けていたのかもしれない


■それが夫の事故をきっかけに
そこから離れることができた

そういうことなのかもしれない。

つまりは、親との確執に囚われてきたもやもやと感情は、本来自然と手放すことができたはずだった、ということだ。

家族の事故だなんて、こんな大変なことが起きなくたってほんとうは手放せるはずの状態だった。

それを縛り付けて抜け出せなくしていたのはわたしだった、と。


と考えると、

抜け出せない悩みというのは、
そこから抜け出せないように引き留めているのは案外自分だった、という場合も多いのかもしれない。


さてさて、ということで、
これまでいろいろと考えてはきたものの、わたしにとって、親との関係性というテーマにおけるゴールはここ↓だったんだな、と思ったりしている。

許せるようになることでもなく
和解することでもなく
無理に断ち切るのでもなく、

自然に どうでもいいこと というように思える状態

と、なんだかすっかり解決したかのように書いているけれど、
これまでもそんなふうに思っていたことはあったので、、笑

もしかしたらこれからも悩み考えることになるのかもしれないけれど、、

でもいったんは、わたしの人生における大きなテーマが一段落したように思えているので!ここから新しいフェーズに進んでいけそうな気がしている今ここです。

それではまた

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