何故おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行くのか
『ひどい民話を語る会』読了。「ひどい民話」を一つずつ対談形式で紹介していく形式で、民話一つにつき2〜3分で読めるからさらさら読めた。移動時間に最適な本だと思う。
最初の方で紹介されているのはうんちとかおならとか、子どもに大ウケしそうな内容ばかりだった。おならを使って漁をする話なんて、あまりにもばかばかしくて笑ってしまった。おならって出せば出すだけその分吸い込むということになっていて、海に向かっておならをすると魚たちが肛門の中に大量に吸い込まれていくって話。聞いたことない。
2章や3章はこういうシモの話が出てこないひどい民話だったけど、これまた酷かった。私の出身地の民話も紹介されていたのだけど、全然聞いたことがなかった。ひどすぎてどこかで語り継ぐのをやめたんだろうか。教訓も何もあったもんじゃないし、もしかしたら本当にそうかも知れない。
ひどい話を紹介する一方で、桃太郎の爺さんや婆さんは、なんで山に芝刈りに、川に洗濯にいくのかっていうのも知れてかなり面白かったので、うんちおならで笑えなくても全然大丈夫。ぜひ読んで欲しい。
さて、この本の最後に、民話として語り継がれてきたもののコンプライアンス的な話がされていて、いろいろ考えるところがあった。
たとえば私が小さい頃、かちかち山の狸はお婆さんを殺すし鍋で煮て爺さんに食わすし、兎は散々狸を騙して責め苛んだ後で泥舟に乗せて殺していた。
花咲爺さんでは、おじいさんが飼っていた犬を隣の爺さんが殺すし、埋めたところから生えた木で作った臼を燃やしてしまうし、悪行三昧だった。
今思うと子どもに聞かすには残虐極まりないと思う。それを心配した大人がどんどん話を改変していくわけで、今ではかちかち山でお婆さんが殺されるようなことはなく、狸が改心して終わるということになっているらしい。
そんなことを言ったら「おじいさん」や「おばあさん」というのも元は「爺」「婆」だったわけだし、私が子どもの頃にはすでにいろいろコンプライアンス的に改変された後だったんだろうと思う。
そう考えると、これからどんどん民話だったものは改変されていき、残酷な表現は消え、改変しきれない話は消えていく道を辿ることになるだろう。
そしてそれを未来の誰かが掘り起こして「本当は怖いかちかち山」「本当は怖い花咲おじいさん」なんて名前で再注目されることになるかも知れない。今で言うところの『本当は怖いグリム童話』のような感じで……。
私がおばあさんになった時くらいには、もしかしたらそうなっているかもなと思うと面白い。だって、今の子ども達はお婆さんが殺されて婆汁にされるなんて知らないんだから。民話だったものがどんどん改変されて消えていくと言うことは寂しいけれど、ちょっとだけそうなることを期待している自分がいる。
いつだって、時代の転換点なのだ。
その中を生きている時は気づかないけれど。