noteやっている人、なんかちょっとダサくない?
noteに対する疑念が湧いてしまうような出来事が立て続けに起きていて、サービスについて考えることが多くなった。このままnoteで発信をしていって果たして良いのだろうかと悩むこともある。でも今は他の良さそうなサービスが見つかっていないし、好きなユーザーさんがいるってことが大きくて、まだ別のサービスに乗り換えるに至っていない。
でも、まだ乗り換えていないというだけのことだ。
他に良いサービスが見つかったらまず始めてみるだろうし、好きなユーザーさんたちが他のサービスに乗り換えたり、noteを止めたりするようなことがあれば、使う理由がなくなってしまう可能性もある。
ユーザーさんたちに失礼に当たってしまう可能性もあるからこんなこと言うのもどうかと思うんだけど、最近、noteやっている人ダサいみたいな感じになっているような気がする。
2、3年前、私が大学生だった時はスタイリッシュなサービスだなと思っていて、私でも知っているような方がnoteを利用していたりして、私なんかが使うのってどうなんだろうって気持ちが結構大きかった。だけど、私がnoteを始めた時にはそんなことは思ってなかった。多分そのころにはすでにダサくなり始めていたんだと思う。
何がダサく感じちゃうのかなとしばらく考えていたんだけど、最近ちょっとわかってきた気がする。なんかnoteって「内部生」っぽくないか? めちゃくちゃ内輪ノリが蔓延っている感じが。
大学に入学したての頃、エスカレーターで大学入ってきた人たちが幅を利かせてイキっているのがとても嫌だった。過去を引きずっている感じがなんかダセェなって思っていたし、自分たちにしかわからない内輪のノリをなんの恥ずかしげもなくこれ見よがしに表に出している感じがすごく気持ち悪かった。
でも不思議なことに、徐々にその内部生たちと仲良くなってくると、ダサさとか気持ち悪さを感じなくなってくるんだよな。内部生のノリに慣れて、自分にもそのノリを取り込んでいくから。狭いコミュニティの中で生きていくうちに、自分たちにしかわからないノリが、みんなに通じるものだと思い始めていくのだ。
そうやって知らぬ間にダサい内輪ノリに迎合する内部生になっていくのだ。
もちろん私も。
さらに気持ちが悪いのが、note編集部やcakes編集部まで内部生側に立ってしまっているように感じることだ。編集部は、コミュニティの空気が滞留してしまわないように新しい風を運ぶ存在でなければならないはずなのに、note編集部お気に入りマガジンの常連さんがいたり、同じようなnoteばかりをおすすめしたりしているところから見ると、大学のサークルレベルのことしかできていないのではないか? と思ってしまう。
もしかして、「コミュニティの空気が滞留してしまわないように新しい風を運ぶ存在でなければならない」というのが間違いなのか?
もちろん、編集部に取り上げられているnoteは考えさせられるものや心を掴まれるものが多いし、何度も取り上げられているユーザーさんが素敵なnoteを書いていることに違いはない。でも、多くのユーザーを抱えているサービスで、素敵なnoteがたくさんある中で、何度も同じ人が取り上げられているのは見ている範囲が狭いということなのではないかと思ってしまう。
内輪ノリに迎合するような編集部って、必要なくないですか?
それはユーザーの独断と偏見で選ぶ好きなnoteと何が違うんですか?
noteというサービスは好きだけれど、最近はサービスを自分が嫌になってきた。だってめちゃくちゃダサいんだもん。馴れ合いばっかりして。ちょっとくらい、緊張感があってもよくない? このままじゃ何も生まれないよ。みんなで落ちていくだけだよ。
なんか、自分に向けて書いた文章に見えて落ち込んできた。私も内輪ノリに迎合してしまっているからだ。少しnoteと距離をおいたほうがいいのかもしれないな。
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