無職、あるいは心
夏、無職になった。
冷房の効いた部屋、平日の昼、王の目覚め。窓の外から蝉の鳴き声が聞こえ、カーテンの隙間から日差しが溢れる。
昨日の夕飯に使った食器を洗い、床に散らばったゴミを捨て、時計を見る。突然の破壊衝動に絶叫。
ということで、「となりのトトロ」を観た。
状況を綿密に精査して、物事を正確に整理したところ、トトロを観る以外の選択がなくなった。あるいは全ての因果がトトロに収束していた。
やれやれ。サイゼリヤのドリンクバーで最強の飲み物を作ろうと思ったのに、どのボタンを押してもメロンソーダしか出てこないようなものだ。
再生ボタンを押した瞬間、僕は静かに滂沱した。流れる景色が感情を崩壊させる。
作品には観るべきタイミングがある。どんなに素晴らしい作品だって然るべき時に観なければ何も感じないことがある。
そういう意味でトトロと僕の邂逅は完璧だった。デブライネのスルーパスに反応するハーランドように研ぎ澄まされたタイミング。
久々に観たトトロは僕の想像を遥かに上回る傑作で、エンディングが流れるころには僕の身体は完全に宙に浮いていた。
自然を慈しむ気持ちは誰しも持っているだろうけど、その程度は人によって違う。
先日、鴨川を観光した。散策中、岩壁にツルを伸ばしているノアサガオや道端で実をつけたキンギンナスビを見かけた。野生の植物はとても魅力的だった。逞しく、美しい。不思議と地味な野生の植物についつい気を取られてしまった。
自然に対する感受性は経験でしか育たない、多分。インターネットだけでは限界がある。
木の緑を見ても、同じ色はひとつとしてない。地域によってその色彩は大きく異なり、様々な要因(気温、湿度、土壌…)が植生を変える。また、時間帯によって見え方は全然違う。意識的に見る/見ないはあるにせよ、外に出なければそういったことがわからないのだ。
舗装されていない道路を走るオート三輪や太陽の光を受けて鮮やかな色を放つ夏野菜を見て、僕は本当の場所を知る。それは既に失われてしまったものだから綺麗に映るのだろうか。
鎧を脱ぎ、自然を正直に見つめる。生きることは自然と対峙することだ。田舎スローライフは心を育てる。
時折、心とはなんなのかと考える。それは出口の無い迷路と変わりはないのだが、それでも同じ場所をぐるぐると回るしかない。語り尽くせないおもいで星を詰め込んだ風船だけが出口を知っている。
ニホンカワウソの絶滅に悲壮を感じた時、そこにいるのは本当に自分なのだろうか。具体性を追求すると本質を見失い、概念に囚われると訴求力を見失う。やれやれ。僕は定規を握りしめて右往左往する。
閑話休題。
自然とはわくわくするものだ。シンプルに考えた時、この結論に辿り着いた。というより既に答えはわかっていたのだ。生活がそれを隠していただけだ。
自然に対する楽しさの源流がトトロにはある。落ちている木の実や草叢に隠れている虫を見るきっかけになるのがこの作品の役割なのだろう。
興味を持てば多くのものが見えてくる。勿論、良いことも悪いことも。自然は人間の為にあるわけではない。ただ、自然はそこにあるだけだ。
今日も僕は冷房の効いた部屋でインターネットをして過ごしております。
「ねぇ、近所の川でバチクソに泳ぎ、縁側で西瓜を食べ、畳の部屋で昼寝をする、それがあるべき田舎スローライフだよね?」
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