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客観的視点(不登校の話)
今読んでいる小説に、不登校の中学生とその母が登場する。
同じく不登校の中学生の親である私は、小説に登場する親子の会話や心理描写を読んで、とても苦しい気持ちになった。
親側の望ましくない言い方や態度で、心が弱っている子供がさらに動けなくなっていく様子が見て取れたからだ。
小説の中のお母さんは、本当によく頑張っていた。
学校に行けない子供のためによい教育環境を模索し、支援してくれる教室を探して繋がり、何度も面談し、子供に恐怖心を植え付けないよう細心の注意を払っていた。
子供の側も、その支援教室には「行けそう」という感触があった。
でも、当日になって体調が悪くなり「やっぱり行けない」ということになってしまった。
このお母さんは話を進めることに、かなり神経を使っていた。
でも、それがスムーズにいかないことを残念に思う気持ちが子供への言葉や態度にあらわれてしまう。
決して子供を責める物言いをしていたわけじゃない。
でも、母の不安や失望を子供は敏感に感じ取っていた。
うちの子がこの小説の中学生と全く同じ心理状態であるとはもちろん限らないけれど・・・おそらく似たような状態だったと思う。
そして、このお母さんは以前の私の姿そのままだった。
この状態では、いくら家で休ませても子供のエネルギーは回復しない。
親が(無意識のうちに)子供のエネルギーを奪ってしまうから。
子供に表面上優しい言葉をかけていても、子供には親の不安が透けて見えるし、嘘をついても子供には見抜かれている。
「子供にはわからないだろう」ではない。
自分が子供の頃を振り返って考えると、親の声色ひとつ変わるごとに、親を不機嫌にさせたんじゃないかとビクビクしながら過ごしていたのだから。
親というものは大変だ。
日々の生活や仕事で忙しい。
子供が不登校になったことで、子供と学校の間で板挟みになったり
好奇の目で見られたり、妙に気をつかわれてしまったりする。
(当事者になってみてよくわかった)
でもそんな親の余裕の無さは、往々にして子供への当たりの強さに変換されてしまう。
だから、子供にとって家を安心できる居場所にするためには、まず親が余裕を持って穏やかに過ごせることを優先。
完璧な親になろうとしない。
子供を完璧にさせようとしない。
「子供は学校へ行かなければならない」「学校に行かなくても勉強はしなければならない」をいったん手放してみる。
それができるようになってようやく、うちの中も変わってきたし、子供のエネルギーも少しずつ貯まり始めた。
親子で話をしたり、一緒に出掛けることも増えた。
まだ未来は見えないけれど、きっと大丈夫だと思っている。