那須佐和子の個展「ライナスの布」について
当該展示のステートメントには次のような句がある。
「わずかな加工や書き込みにより、これまで潜んでいた物語や感覚を呼び覚まし、時間と記憶が交差するような視覚体験を生み出しています。」
大きな淡い緑色に、さらにさらに淡い赤みの差した絵画作品がある。この絵を見て、直ぐ隣の絵を見て、再びこの緑色の絵を見たとき、先程は見えていたはずの図像が消えているような気がした。
捜す、捜す、、しかし最初に見たはずの何かよりも絵具のひび割れや凸凹とした表情が際立つ、探す、、、諦めて、目をそらして別のものを見て、諦めきれずに、再びこの絵に視線を戻すと、今度は、これまで見えていなかったものがあった。
どうも、直前に見ていたもののシルエットの残像がこの絵の中に浮かぶらしい。
私が最初に見たはずの図像は、残像だったのだ。
直前に見たもののシルエットは、近過去、記憶であり、この絵の中に見るそのシルエットの残像は、残像から目を反らして、この絵の別の箇所を見れば、そこには残像の残像が見える?
じっとこの絵を見て、近づいたり離れたり、あちらこちらの部分に注目する度に視点は目まぐるしく動き、残像の残像の残像の残像が発生しているのか?
分かる、分かること、見えることの手前の何かを見ているのかもしれない?
音楽家の evala 氏は、「夢は耳で聞かない」と云ったそうだ。
この絵を眼で見ながら、眼では見ないものをも見ている、残像(記憶)を、残像(記憶)の残像(記憶)を見ている。
もしかしたら、普段から、眼や耳で知覚しつつも、眼や耳ではないもので色々なものを知覚しているのかもしれない、否、そうに違いない。
ただ、普段から注目することに慣れてしまった対象の印象、知覚の印象、それらを整理するための使い慣れた様式が際立ち、それ以外のものはわきに追いやって、身を潜めているのかもしれない、カクテルパーティー効果のように。
今、記憶の中で、この緑色の絵は、動く霧のようなものに見えている。
私がこの展示に訪れたのは昼間だったが、日が暮れてからは、外の様々な電気の光が差し込み、まったく違った表情を見せるそうだ。また、変わった位置に蛍光灯が設置されていた。
昼間に再び訪れたとしても、また、まったく違った体験をするような気がする。
他の人は、この展示をどんな風に体験するのだろう?
しかし、インスタレーション的な要素も積極的に絡み合わせてあったので、何処から何処までが絵画なのか?
仮りに、そこに絵画があるのではなく、その絵画(オブジェクト)と鑑賞者との間に絵画が立ち上がるのであれば、さらに、鑑賞者と絵画(オブジェクト)の間を取り持ち、空間を演出するような展示であるなら、鑑賞者(私)も絵画であり、光も、展示された部屋も、絵画なのかもしれない。
気になったので、この絵画の鑑賞体験について書いてみた。このメモが、当該展示の鑑賞と余韻の邪魔に成りませんように☆
斉藤有吾
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【展示概要】
那須佐和子「ライナスの布」
2025年1月10日(金)— 3月29日(木)
開廊日時: 火—土 13:00-20:00
休廊: 日・月
交通:新宿三丁目駅(都営新宿線、丸ノ内線、副都心線C1出口)
KEN NAKAHASHI(gallery)
住所: 〒160-0022 東京都新宿区新宿3−1−32新宿ビル2号館5階