めぞん一刻を語ろう。
個人的にラブコメ漫画の最高峰は
・めぞん一刻 (高橋留美子)
・みゆき (あだち充)
・ラフ (あだち充)
だと思っています。
これらの作品の共通点は、もとい最高峰の理由については、私が思春期真っ只中に全巻一気読みをし、読み終えた後、作品に心を持っていかれてしまい2~3日現実生活に支障をきたした事に由来します。
これらの作品に出会ってから云十年、未だこの3作品を越える現実世界に戻れなくなった漫画には出会えていません。
そのめぞん一刻のKindle版がセールになっていたので奮発して全巻購入して読み返してみましたが、やはり面白い。
初見で読み終えたときの衝撃は大分薄れていましたが、それでも十分に堪能させてもらいました。
調べてみるとめぞん一刻は1980年から1987年まで連載をしており、連載終了から約40年近く経過している訳で、そりゃ私の周りにもこの作品の内容を知らない世代もいますよねと言う訳ですが、この作品を読まずして人生を終えるのは少々勿体無いと思う訳です。
そこで何十年ぶりかに読み返しためぞん一刻で改めて気づいた魅力をつらつらと書いてみて、その布教活動を行ってみようと思います。
めぞん一刻が連載を終えた1987年は、元号で言うと昭和62年。
スマホやインターネットは世には無く、公衆電話の存在が当たり前の時代で、今の生活様式とはガラッと違います。
とは言え、人の心は飽くまで不変なのか、響子さんの嫉妬や焼きもち、愛しむ気持ちは未だに何故にこうも魅力的なのか。
読書後の感情の喪失感は何処から来るのか。
言うなれば、読書後の喪失感とは「音無響子の焼きもちを焼く姿を二度と見ることが出来ない」事が起因しているのではないかと。
五代くんの態度にやきもきしながらも応援して、響子さんの揺れる感情に胸を締め付けられ、三鷹さんや八神の存在にハラハラした世界から離れる寂しさ。
読書後、全てのしがらみを取っ払って、それでも溢れ出て来た感情が「響子さんおめでとう。そしてさよなら。」であった事に間違いはなく、もう二度と一刻館の住人達のその後に会えない寂しさは筆舌に尽くしがたい。
この寂しさは現実の世界に戻っていかなければならない読者(私)の孤独であり、結婚後に発生するであろう五代くん達の未来のトラブルを見ることが出来ない寂しさ。
響子さん達の世界線と共有した時間と現実の時間はいずれ確実に乖離し、「自分もその世界に残りたい」と願えども、そうもならず「さよなら。元気で。」と言い残して立ち去った七尾こずえと同じく、自分もそれほど遠くない未来にその世界から立ち去らなければならない現実。
つまり、めぞん一刻の世界との別れがとてつもなく寂しく、しかし寂しいけれども、一緒に共有できた時間はとても暖かく、心の何処かにほのかに暖かい思い出の記憶を残してくれた時間であり、どうかめぞん一刻を読んだことが無い全ての人々に、この思い出を心に残して欲しいと思うと同時に、めぞん一刻の世界から別れてしまった寂しさも共有したいと思うのでありました。
下記はおまけ。
読み返してみて、作者の高橋留美子が素晴らしいなと発見した一つが、響子さんの所作のリアリティです。
例えば八神と一緒に管理人室で寝るシーン。
響子さんは鏡台の前で髪をといていますが、私はこの行為の発想には至らない。
また別に靴を履く仕草にしても、屈みこまずに腰を折って靴ひもを結ぶ動作。
妙に生々しい。
また言葉遣いが素晴らしい。
「私がいなくても、大丈夫なんですね・・?」
この台詞一つとっても奥ゆかしい。
話しかけている相手が年下の五代くんであるにも関わらず、妙に丁寧に話しかけますが、かと言って他人行儀にもなっていない。
絶妙な距離感。
かと言って、響子さんは何時でも何処でも誰にでも丁寧な話し方をするわけでもなく、実の両親には素の自分をさらけ出す二面性。
読書中、常に私は「響子さんが実在していたら今は何歳なんだ」と思いながら読んでいましたが、女性の実年齢を調べるのも野暮と言うものなので、「いま実在していたらそれは素敵な女性になっているんだろうな」との妄想で留めておきました。
蛇足
めぞん一刻のOP曲である斉藤由貴の「悲しみよこんにちは」は余りにも有名ですが、いまこの作品をアニメ化するとして主題歌にするとすれば私ならAwesome City Clubの「勿忘」にするだろうな~と最終巻の「桜の下で」を読みながら思っていました。