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隣り合わせの灰と青春【小説ウィザードリィ】感想文

少し昔話をしよう。

パソコン黎明期の頃の話だ。
パソコン雑誌を眺めていると、よく見かけるゲームがあった。

黒の背景に緑色の線で描かれたドラゴン。
赤字でゲーム名が上部に表示されている、ウィザードリィのパッケージだ。

ウィザードリィ第1作目が発売されたのが、1981年であるらしいが、私が雑誌で目にしていたのは80年代中旬ごろである。

真っ黒なダンジョンに白いワイヤーフレーム、リアルな敵キャラ。
パソコン雑誌でそんな画面の写真を眺めながら、子供だった私は、ウィザードリィを遥か別の世界の何やら触れてはいけない、大人だけが遊べる禁断のゲームと思い込んで、きっと自分は触れることが出来ないゲームなんだろうなとぼんやり思っていた。

ウィザードリィを知っている人は「このゲームのシナリオはあって無いようなものだ。」と言っている。

”そんなシナリオがないゲームなんて面白いのかな。”

ファミコンでドラゴンクエストを遊び始めていた私は何となくそう思っていたりもしていたが、実際にウィザードリィを遊ぶ機会が訪れた。

ファミコン版ウィザードリィだ。

友人から借りてきた。
ウィザードリィを借りる際に「壁に入ってしまったら、絶対に速攻でリセットをするんだ。」と教えてもらった。

いざ実際に遊んでみたら、キャラメイクから進まなかった。
より多くのボーナスポイントが出るまで粘り続けたからだ。

ボーナスポイントにようやく折り合いをつけて、いざ、ダンジョンへ。

その後の冒険を語る事については割愛する。
記憶の片隅に追いやられた私のつたない冒険譚など、この場では語るに値しないからだ。

そして何より、ウィザードリィはプレイヤーの数だけ冒険が存在する。
漆黒の闇の中に、白いワイヤーフレームと敵キャラだけが表示される世界に、無数の冒険が詰まっているのだ。(ファミコン版は壁に色が付いていたような…)
出来るのであれば、自らの足でウィザードリィのダンジョンに潜って頂けたらと思う訳である。

「隣り合わせの灰と青春」は、そんなウィザードリィの世界の冒険の一つであり、ウィザードリィを遊んだプレイヤーなら、一度は妄想してしまう種類の、そんな冒険譚だ。

ダンジョンの深層部でパーティが全滅してしまい、「やられた!サブパーティで助けに行かないと。間に合うか。くそー!」と日夜世界中の何処かで誰かが絶叫してる、そんな冒険の一つだ。

ウィザードリィのダンジョンは、何処かの誰かが、今日も人知れず深層に蠢くレアアイテムを求めて乗り込んでいき、そして何処かで誰かが「あーーーー!」と絶叫している。

「隣り合わせの灰と青春」は、そんな世界の体験を言語化した見事な小説だ。
この小説を読めば、ウィザードリィのダンジョンに潜りたくなる。
自分ならもっと強いパーティを作れる。
もっと強い装備を揃えられる。
そんな欲求がふつふつと湧いてくる。
そう言う意味でも見事な小説だった。
私が過ごした青春の舞台の裏側で、こんな物語も展開されていたのか。
何て、妙な親近感を覚えたりもした。
何十年も前のコンテンツが未だに現役で愛されているのは本当に凄いことだと思う。

1980年代に私たちが過ごした青春の一幕であった「隣り合わせの灰と青春」の物語は終わりを告げたが、そう、今でも色褪せることのないウィザードリィのダンジョンに、今日も何処かの誰かが人知れず挑んでいき、何時ものように全てに絶望したかの様な誰かの絶叫が、今日もダンジョン内に何時までも、何時までも響き渡っているのである。








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