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算数と数学

 中学校に上がると、算数という科目は数学という科目に変化します。これに大きな意味はあるのでしょうか。ここで、この記事では中学校の数学も算数として扱うことにします。理由は読んでいればなんとなくわかると思います。

 一つは算数の対象が計算力というところであるのに対して、数学はそれより思考の比重が大きくなるというところにあるはずです。

 小平邦彦先生は「数学の学び方」と言う本で、算数のことを算術と記載していました。現代的に言えばこの表記方法が間違っていることは言うまでもないのですが、こう書いた方が算数の存在意義がはっきりします。昔は「関数」を「函("はこ"とも読みますね。この場合は"かん"です。)数」と記載しているなど、昔の記法は物事の本質をついてることが多いように感じます。

 さて、では算術とは何かといえばこれは先にも記載した通り、算術の方法のことを指します。つまり、計算方法のことです。

 これに対して数学と言うのは、読んで字のごとく数を学ぶわけですから、数学の学習対象と数学の学習対象が異なることは明らかですね。

 ここで、僅かばかりですが自分の経験を書かせてください。私は小学校・中学校の間数学が全くできなく、テストではほとんど毎回一桁の点数を取っていました。しかし高校の数学は非常に得意で、共通テストでは80点程度取りましたし、通っている大学の数学の成績はほとんどがSです。また予定ですが、大学院では数学の研究をする予定でいます。

 この部分だけ読むと、意味が分からないかもしれませんが、実際にこのようなことは起こりえるのです。でも、どう考えても自然じゃないですよね、この現象は。なぜなら、そもそも小中の初等的教育ができていなかった人間が、その上に成り立つであろう中等、高等教育を学習することができているからです。

 ただ、実はこの太字の部分が間違いなのです。つまり、数学と言う学問は、中・高等教育が必ずしも初等的教育の上に築かれるわけではないのです。

 なぜこのようなことが起きるのでしょうか。それは、先にも記載した「数学」と「算数」の対象とするものが異なっているということに由来します。つまり、算数で問われていることができない人間でも、数学で問われていることを満足に答えられる可能性は否定できないのです。

 ここでまた一つ例をあげます。私は家庭教師をしているときに、正負の概念や文字式の概念を理解することに少々苦労している学生を見たことがあります。もちろんその勉強の方が彼にとって優先されるべき事項であることは変わりないのですが、ちょっとした休憩として私が大学の数学の問題を彼に出してみました。問題は

「ドーナツとマグカップは一緒だけど、サッカーボールはこの二つと異なる。では、この二つとサッカーボールは一体なにが異なっているのか。」

というものでした。識者であれば、この問題がトポロジーの観点から物事を離し知恵ることがすぐに気づくと思いますが、一般的な中学生がそんなことを知るはずはありません。しかし、彼は大して悩むこともなく「穴の数」と、けろっとした顔でこの問題を解いてしまいました。

 彼もまた、おそらく私と同じタイプの人間で、算数は苦手ですが、数学的思考は得意なタイプだったのでしょう(多分彼は、私よりよっぽど数学のセンスがあったでしょう。私は同じ問題を中学生の時に出されても答えられなかったでしょうから)。

 しかし、このようなタイプのほとんどがおそらく数学の得意さに気づくことなく、そのまま人生を過ごしてしまうでしょう。でも、トポロジカルな思考を中学生のうちからできる人間が、数学の研究に携わらないというのは少し損失であるようにも思えます。本当は存在していた才能を、気づくことなく自分が潰してしまう、こんなに悲しいことはないでしょう。

 だから、今算数が苦手でも、決して数学のことは嫌いにならないでください(どこかのアイドルが卒業の時に言った言葉みたいですね・・・)。あなたの可能性は決して、算数ができるかできないかなんてことで推し量れないのです。

 

 

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