【映画評】羅生門
映画『羅生門』は言わずと知れた黒澤大傑作群の一つで、海外でもヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、アカデミー賞名誉賞などを授賞している世界映画史に残る金字塔である。今「海外でも」と書いたが、公開当時はむしろ日本国内の評価がさっぱりで、ヴェネツイアにこの作品を送ったのもイタリア人だったという(制作元の大映が反対したため)。この映画の評価が国内で見直されたのはヴェネツィア授賞後なのだ。
映画の内容は芥川龍之介「藪の中」をベースにしていて、そこに一種の舞台装置として「羅生門」が付け足されている。構成も凝っていて、まず豪雨の中、羅生門で雨宿りをする杣売り(そまうり=薪売り)、旅法師、下人の三人が登場。旅法師が「こんな恐ろしい話は初めてだ」「人間という人間が信じられなくなる」と独白するのを聞きとがめて、下人が話をせがむ。するとその日検非違使の庭で聞いてきたという「恐ろしい事件」の話を、杣売りと旅法師が下人にして聞かせる。
この「事件」が物語の主要部分だが、ポイントは事件の真相が証言者によってまちまちだという点にある。事件の経緯には四つの異なるバージョンが存在し、この映画の中でその四つが順番に語られていく。それらはすべて「神の視点」ではなく伝聞であり、従ってどれが真実かは分からない。そして物語の合間合間に杣売り、旅法師、下人の会話や注釈が入る。そして最後は、この三人それぞれの人間性を示す挿話がエピローグとして入り、終わる。
事件というのは強姦及び殺人で、登場人物は侍、その妻、盗賊の三人だけ。盗賊が侍を騙して木に縛りつけ、その面前で妻をレイプし、その後色々あって侍が死体となる。証言者たちの話は、レイプが終わるまでは一致している。食い違ってくるのはレイプの後、侍が死体になるまでの経緯である。証言者は、当事者である盗賊、妻、死んだ侍に加え、物影からそれを見ていた杣売りの四人。死んだ侍がどうやって証言するんだと思われるだろうが、霊媒の口を借りて証言するのである。
この、一つの物語の四つのバージョンを順ぐりに見せるという趣向がまず秀逸。真実が何か分からない、そもそも真実って何だ、という映画のテーマを掘り下げる意味においてだけでなく、単純に、一つの状況から四つのプロットを考え出す思考プロセスを見せてもらっているような面白さがある。あるいはまた、シンプルでありきたりだったプロットがだんだん歪んで複雑化していく過程を見るようでもある。この『羅生門』にはそういうメタフィクショナルな面白さが横溢していて、そういう意味で非常にモダンな構造を持った映画だと思う。
それからもちろん、一つ一つのバージョンの組み立てと、その組み合わせが非常に巧緻である。単に四つの別バージョンを並べましたというだけではなく、全体を通して、人間性というもののある側面を否応なくあぶり出し、かつ、それを「説明」することなく観客に「映画の衝撃」として感得させる離れ業を見せる。これがなんといっても素晴らしい。
ではそれぞれのバージョンを見てみよう。まず第一のバージョンは、盗賊の多襄丸(三船敏郎)によるもの。いわば犯人による自供である。彼はレイプ後、侍の妻に「2人の男に恥を見られては生きていけない。あなたか夫か、どちらかが死んで。自分は生き残った方についていく」と言われ、夫の縛めを解き、正々堂々と決闘して侍を殺した、という。が、女は怖ろしくなって逃げた。これが多襄丸バージョンである。非常にストレートで、野蛮ではあるがある意味まっとうである。つまり盗賊は悪いことをし、女はあわれに泣き崩れ、侍は男らしく戦う。誰もが期待される役割を踏み外さない。「この多襄丸とあれほど斬り結ぶとは、あっぱれな奴だった」というセリフがしめすように、多襄丸と侍のいずれも勇壮であり、雄々しく、どこにも醜いところはない。
第二のバージョンは侍の妻によるもので、なんと、侍は盗賊でなく自分が殺したという。多襄丸はレイプ後そのまま去る。自分は夫の縛めを解くが、夫が無言で、恐ろしい蔑みの目で自分を見たがゆえに、衝動的に殺してしまった。このバージョンでは、真の加害者はレイプ犯の多襄丸でも夫を殺した妻でもなく、夫本人ということができる。夫が自分に向けた「軽蔑」という恐ろしい毒への報復として、いわば正当防衛として、妻は夫を殺した。このバージョンでは、夫の行動は醜い。そしてその心理は不気味である。
第三のバージョンは死んだ侍によるもので、これも意外なことに、自分で死んだ、つまり自殺だという。レイプの後、盗賊に一緒に来いといわれた妻は、うっとりした表情で「どこへでも」と答える。続けて侍を指差し、冷たい目で「あの人を殺して」と言う。すると多襄丸は女のその態度にあきれて侍の縛めを解き、「おい、この女を殺すか?」と問う。女は逃げ、多襄丸も女を追って去る。一人残された侍は情けなさに涙し、短刀で自害する。この場合、やはり多襄丸の罪は軽く、侍を自害させたのは妻のあまりにも酷薄な行動である。このバージョンにおいてもっとも醜い行動をとるのは妻である。
ここまでが当事者の証言だが、面白いのは、三つとも「自分が殺した」と言っている点だろう。従ってこの三つのどれが嘘だとしても、それは法的責任を逃れるためではない。嘘の目的は、自分にとってもっと大切な、他の何かを守るためである。では、それぞれのストーリーのポイントは何だろう。多襄丸バージョンは、言うまでもなく猛々しい盗賊としてのセルフイメージに合致するものだ。侍とその妻も、いかにもそれらしい振る舞いをする。一方、侍夫婦それぞれのバージョンは、先述の通り、多襄丸のレイプはむしろ二次的な要因となっていて、妻は夫の軽蔑、夫は妻の不実と酷薄が、悲劇の最大の原因になっている。要するに、夫婦同士でお互いを糾弾しているのである。必然的に、お互いの行為が非常に醜く描かれている。妻の目から見た夫は醜く、夫の目から見た妻は醜い。その醜さが、それぞれのバージョンに語り手の深層心理が滲み出るような不気味さを与えている。
そして第四のバージョンとして、目撃者である杣売りの証言が登場する。ここまでの流れから予想される通り、このバージョンがもっとも醜悪だ。レイプの後、決闘するために多襄丸が侍を解き放つところまでは多襄丸バージョンと同じ。ところがここで侍は、待ってくれ、こんな女のために命を賭けるのはごめんだ、欲しいならくれてやる、と言う。そして愕然とする妻に向かって、なぜ自害をせん、見下げ果てた女だ、と毒づく。この言葉で多襄丸も女への熱が冷めた様子で、男二人で女を囲んで嘲笑する。すると泣いていた女の声が狂笑に変わり、情けないのはお前たちだ、それでも男か、と男たちを罵倒し始める。夫には「妻を汚されてなぜ盗賊を殺そうとしない、この臆病者」、多襄丸には「名高い盗賊と聞いてちょっとは男らしい男かと思ったが、聞いてあきれる、他の腰ぬけどもと同じだ」
この罵倒に青ざめた二人は、無言で斬り合いを始める。が、この斬り合いは多襄丸バージョンの雄々しさとは真逆で、二人ともへっぴり腰、恐怖にがくがく震えながら目をつぶって刀をメチャククチャに振り回すという、臆病者丸出しの、いかにも醜悪な斬り合いである。やがて侍の方が「死にたくない、助けてくれ!」と悲鳴をあげながら殺される。その凄惨さに女は逃げ出す。
ここではもう、全員が醜い。夫は保身のため妻に責任をなすりつけ、なじる。妻は狂気のように男二人を罵倒する。多襄丸も臆病者の本性が暴露される。この最後のバージョンも実は杣売りの都合で一部省略されているが、もっとも真実に近いと考えていいだろう。かつ、このバージョンはそれまでの三つのバージョンの要素をすべて含んだものになっている。決闘もあり、夫の軽蔑もあり、妻の罵倒もある。この第四のバージョンが変形してそれぞれに都合のよい第一から第三の各バージョンが生まれたことは想像に難くなく、また充分に説得力がある。
さて、この事件、というよりこの事件の証言が互いに食い違う事実に対して、旅法師はさかんに「恐ろしい」を連発する。人殺しや飢饉や追剥は飽きるほど見てきた旅法師が「こんな恐ろしい話は聞いたことがない」と言うのだが、この物語の何がそれほど恐ろしいのか。今度はそれを考えてみよう。
思うに、この映画の恐ろしさには三つのレイヤーがある。まず第一は、具体的な行為の恐ろしさ。といっても、レイプや殺人が恐ろしいということではなく、本当に恐ろしいのはレイプされた妻に夫が向ける蔑みの視線であり、また、夫を殺してと盗賊に告げる妻の言葉である。それにしても、第二バージョンにおける森雅之のお面みたいな蔑みの表情はものすごく、あんな顔で他人を見たら殺されても仕方がないんじゃないかな。
二つ目は、三人が三人とも嘘をつき、しかも他人だけでなく自分自身をも偽っている点が恐ろしい。下人が言うように、人間は時に自分まで騙しながら生きているものなのだ。その目的が単なる保身でないことは、多襄丸、侍、侍の妻の全員が「自分が殺した」と言ってことから明らかである。では、一体彼らは何のために真実を歪め、真実を歪めたことを自分自身にすら隠してしまうのか。その回答は観客の数だけあるのだろうが、私が一つの解釈を呈示するならば、おそらく人間は、自分の本当の姿を見ることに耐えられないのである。多襄丸、侍、侍の妻の証言の食い違いは、そう考えることで初めてしっくり来る。だとするならば、多分私たちは誰もが自分に嘘をついているのである。自分の本当の姿を見ないようにするために。
そして三つ目は、人間の心に普段潜んでいるものの恐ろしさ。それは鬱屈であるかも知れないし、もっとダイレクトに憎しみと呼んでもいいかも知れない。なぜ侍は妻が「あの人を殺して」と言ったと証言し、妻は夫が自分を蔑んだと証言するのだろうか。なぜレイプ犯である多襄丸よりも、自分の伴侶にすべての憎しみが向かうのか。事件の直前、この夫婦は仲むつまじく、お互いを労わりあっているように見えた。しかしその心理の奥底に何がうずくまっていたのか、私たちは想像しないわけにはいかない。何よりも不気味なのは、もしかしたらそれかも知れない。
このように『羅生門』は人間心理の奥底に分け入っていく物語であり、だからこそ他のどんな映画とも違った恐ろしさで観客を慄然とさせる。また、それを単に細々した「人間描写」だけでなく、物語の四つのバージョンを並べて見せるというメタフィクショナルな手法によって、鮮やかに達成している。それがいかに冴えたアイデアであったかは、この物語が最初から第四バージョンだけだったらどうかを考えるとよく分かる。それはそれで人間の醜さを描いたドラマとなっただろうが、この映画の衝撃力には遠く及ばなかっただろう。
素晴らしい脚本以外にも、この映画の見どころは多い。ビジュアル的には、深い森の中の夢幻的な美しさや京マチ子の典雅な美貌に目を奪われる。特に冒頭、杣売りが森に分け入っていくシークエンスは秘められた人間心理に分け入っていく錯覚を起こさせ、効果的だ。その他、じっとり汗を滲ませた多襄丸のむせかえるような野性や、顔を覆う指の隙間からのぞく京マチ子の見開かれた瞳など、印象的なカットは数多い。そしてまた、光溢れる森のシーンと対照的な羅生門の豪雨。それらが渾然一体となって、この人間心理の残酷寓話は何か神話的な域に達している。撮影は宮川一夫だが、黒澤は彼の仕事を百点以上だと絶賛したという。ちなみに、この映画ではそれまでタブーだった「カメラを太陽に向ける」ということを初めてやったらしい。
加えて、前後から切り離されて唐突にインサートされる雲、夕焼け、池、などの断片的なショットが、不思議に象徴的な効果を上げている。黒澤がこういうショットの使い方をするのは他ではあまり見ないように思う。更に検非違使の庭の場面を簡潔に、演劇的な見せ方をしている(役人のセリフは一切入らず、姿も映らない)ことによって生々しさが緩和され、やはり神話的な抽象性を獲得している。
遠い平安時代を舞台にした、強姦と殺人という極限状況の物語であること、当事者がたった三人であること、そして四つの異なるバージョンの芝居が並列されること。魅惑的な象徴性に満ち、野蛮と残酷のぎらぎらする輝きを帯びていること。と同時に、人間心理の奥底に降りていく暗い戦慄を隠微に湛えていること。『羅生門』は驚くほど独創的な、しかしながら強烈に元型的な物語であり、まさに魂に焼き鏝を当てるような効果をもたらす映画である。