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読書雑記 ガブリエル・ガルシア=マスケス『百年の孤独』
2024年、出版界と読書家の大ニュースだという『百年の孤独』の文庫化。でもそもそも話を知らないのでひと調べする。
「長らく文庫化されず、世界が滅びる時に文庫化される……」というたいそうな伝説。出版されれば「この世界が滅びる前に」という意識を込めた帯に、仰々しい金の絵図が描かれる表紙。なるほど関心も沸くもので、そういうわけで読むことにしたのである。
読んだのは無事出版された文庫版ではないが。だって図書館にあったんだもの……
おかしな人が多く出てくる、でもなにか哀しい話だな、と読み終えて思い、しばらく時間が経った。
秘かに待ち構えていたNETFLIXでのドラマ化。画面に写る、閉幕を前にメルキアデスの書をめくる最後の一人。過酷な山越えの先に生まれたマコンド。不可思議なジプシーたちの見世物。錬金術に惹かれるホセ・アルカディオ・ブエンディア、それを呆れながらに見つめるウルスラ。そこには確かに、『百年の孤独』という作品のエッセンス、現実と幻想の重ね合わせた世界があった。
ただし原作の仔細までは実のところ覚えていなかった。仔細と言っても全ての始まりであるプルデンシオとの決闘すら忘れてしまっていたのだが……。ともかく印象に残る部分だけ記憶にあって、他は不安があったのである
それならかえって読み直しの好機だ、とばかりに借り直し、読み直す。一度最後まで見届け、映像も含めて見たマコンドは、読み直してもその鮮烈さが失われず、むしろ増していくようだった。
折角なので改めて読んだうえでの読書雑記を書いていく。非常に論点が多岐にわたる作品であるため、実際のところ個人的に気になったところの纏め程度ではある。
『豚のしっぽ』に始まり『豚のしっぽ』に終わる
見るからにわかりやすい部分ではある。豚のしっぽを回避しようとしたことを起点とする100年の旅。その終わり、一族で成立した禁忌の愛から、豚のしっぽが生まれる。反復される歴史の中で生き続けたブエンディア一族とマコンドは、始祖以来の近親間の愛と出産という反復によってついに終焉する。
ただこの反復には根本的な違いはある。アルマジロだろうが豚だろうが育てる。マコンドの始祖たる夫婦が内包したその熱は、退廃の気配を纏うアウレリャノとアマランタ・ウルスラ、そして衰退したマコンドに欠けるものだ。運命はそれを見こしたかのように、ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラの間には3人の子供を、アウレリャノとアマランタ・ウルスラの間には豚のしっぽのアウレリャノを与える。
この豚のしっぽこそが、ブエンディア一族の中で初めて愛によって生まれた子供だと語り手は言う。天の視座で一族の愛憎を長らく眺めてきた読者にとって不思議なフレーズではある。思うに、二人の間の愛、子供の存在、家族からの受容の全てをそろえたのが、この甥と叔母のカップルだという事か?
「悔いで結ばれていた」というホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ。
本来愛していた人以外と子供を携えるアルカディオとサンタ・ソフィア。
熱烈な愛があっても子供がいなかったレベーカとホセ・アルカディオ。
子供がいても愛と呼べるもののないアウレリャノ・セグンドとフェルナンダ。
愛というより同情や友情に近かったアウレリャノ・セグンドとペトラ・コテス。
子供のできる前に世を去ったアウレリャノ大佐とレメディオス。
愛を見つけらず、選ばなかったアマランタ。
不受容ゆえ外部からの拾い子として育ったアルカディオ、アウレリャノ・ホセ、アウレリャノ・バビロニア。
どこかで満たされない部分を内包しながら一族の家系図は紡がれてきた。 孤独なき家族、という要素が完全に整えられたのは、アウレリャノとアマランタ・ウルスラの劇的な愛が最初だったのではあるまいか?衝動と親愛双方で結ばれ、その証として子供がいる。近親婚や非公式の関係を許さないウルスラやフェルナンダといった一家の母はいない。100年の歴史の果て、自然が侵略する屋敷の中で、愛を求め続けた物語がようやく一つの完成を得る。
だが、解消されたかに見えた孤独は、アマランタ・ウルスラと赤ん坊の死によって、結局アウレリャノの元に舞い戻ってきてしまう。最後までブエンディア一族は不条理な呪いから抜け出せずに、風の中に消えていく。
レメディオスという名前
アルカディオとアウレリャノ何人出てくるねんとなることに定評のある本作。衝動ゆえ悲劇に向かうアルカディオ、理性ゆえ悲劇に向かうアウレリャノ。セグンドの双子による入れ替わりを経つつも、この流れは変わることがない。
2つの名前と気性を延々使い回す男性陣。大して女性陣は後述する例外を除けば、ウルスラ、ピラル・デルネラ、アマランタ、レベーカ、名前の長いサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダ、フェルナンダ……と、終盤のアマランタ・ウルスラ以外では被ることはない。
自分の生き方に没頭する男たちを尻目に、家を守り、金を稼ぎ、子を育てる力強い主婦。或いは思うがままに愛の中で生きた個性的な女性。みな長く生き、それぞれの個性と力を発揮した人々だ。個性の表象である名前に被る余地のない、強い女性の表現ともみなせるか?
そんな中例外的に繰り返されるのが、3回登場するレメディオスの名だ。レベーカとアマランタを結びつけるほどに家族から愛されながら、子供を産む前に急死するレメディオス・モスコテ。男たちを恋に狂わせ、不思議な消失を遂げた子町娘のレメディオス。そしてメメと呼ばれ、悲劇の恋を経験するレナータ・レメディオス。
初代レメディオスと二代目レメディオスは中々対比しやすい存在である。情緒は幼いが美しく、人々を大いに引き付けるが、最後は若くして唐突にこの世を離れていく。個性のある人物にせよ、若くして迎える終わりを含め、前述した烈女たちに比して細さを感じずにいられない。
メメはこの二人とは少しズレがある。レメディオスでなく「メメ」という名前表記がされているのがその暗喩だろうか?男を引き付けるというより男に引き付けられ、恋の証明として子供を産み、最後はひとり老衰で旅立っていく。マウリシオの死で心を閉ざし、マコンドを離れ以後登場しないのは物語的には早死にといってもよいのかもしれないが、以前同名ながら別個の存在に思える。レメディオスの系譜というより、恋を巡って争ったレベーカやアマランタの雰囲気。
もしレメディオス・モスコテとアウレリャノの子供が無事に生まれていたら、と空想することがある。孤独ではないアウレリャノは、「アウレリャノ・ブエンディア大佐」ではなく、夫・父として家族と過ごせたのだろうか。あるいはフェルナンダが潔癖ではなく、マウリシオとメメの子アウレリャノ・バビロニアが祝福されながら迎えられていれば、この血筋は少しだけ残存しえたのか?
結局は、レメディオスの死やフェルナンダの来訪すら含めて、血統を絶やす呪われた運命が働き続けていた、ということか。初代と三代目レメディオスは、運命を変動させるターニングポイントとして共通するのか?
最後に現れるメタフィクション
メルキアデスの文書を解読し終えるアウレリャノ。一族の百年を予言する文書だった。
処刑直前に過去を回想する英雄アウレリャノ・ブエンディア大佐に始まり、栗の木に繋がれた老人、シーツと共に昇天する少女、愛憎に生き純潔のまま死んだ女、反抗の果てに同時に寿命を迎えた双子の兄弟、愛し合った叔母と甥、そして蟻に連れていかれるその子供。それぞれの生と死のありようの物語──即ち『百年の孤独』。
ページをめくるアウレリャノと読者。文中に織り込まれた一族の名前が、読み進めるアウレリャノと読み進めてきた読者を、一族の全てを知るものとして一体化させる。共に過去を振り返りながら、羊皮紙と本の最後のページに達するとき、蜃気楼のような幻想的現実の町は、余韻を残して風の中に消えていく。
『百年の孤独』は歴史と反復の物語だ。ブエンディア家の近親婚という大きな反復に挟まれ、形を変えながら物事が反復し、マコンドに降りかかっていく。
しかし全く同じ現象でもない。ジプシーや他の町という外部者の接触による発展は政府やバナナ会社という外部者に破壊され、四年間の大雨は不眠病と違って多大な破壊をもたらし、いとこ婚で生まれなかった豚のしっぽは叔母と甥が結ばれたことで現れる。反復する出来事は徐々にマコンドと一族を衰えさせていく。作り手──予言者メルキアデス、そして作者ガルシア=マスケスがメタ的に規定したが故に避け得ない『呪い』によって。
反復を成立させる登場人物は、もはやこの滅ぼされた世界には存在しない。おかしな人々が織りなしてきたどこか哀しい物語と不可思議な街の歴史は、反復の可能性を永遠に失って終わる。
まとめ
まとめることができれば苦労しない。
観点が異様に多い作品だ。そして解釈の多様性は即ち名作の条件とされる。参考のために解説や感想を見ても、物語の構造を中心に見る人に、中南米という土地の歴史と特異性と結びつける人もいる。フォークナーに影響されたガルシア=マスケスにとって、架空の地、劇的な一族の盛衰という点で、彼にとっての『アブサロム、アブサロム!』であるとみなすこともできる。野心に優れた人物が作った繁栄が、呪いの如き運命と愛の欠如によって衰えるさまは似通っている。『アブサロム』も私の好きな作品なので、次があれば比較してみたい。
難解な構造の一方で、読む際は不思議とスムーズで、スピード感すら感じるのは作者の妙であろう。この世のものとそうでないものが入り混じるエピソードが軽快に最初から最後まで凝縮されている。『百年の孤独』とは、そこにある人々の喜怒哀楽の声に、幻想が覆いかぶさるホラ話じみた悲喜劇に引き込まれるための作品ではないか。
なんにせよ、大抵の物語は実際に読んでみないと分からないものである。そして優れた作品とは、あらすじを承知してもなお優れていると感じさせるものにその呼び名が与えられるのだ。
文庫版の話は聞いたけどまだ手を出せてない、という人には、五原語で書かれた呪われた一族の悲劇の物語についてぜひ一読を薦めたい。自分は未だ文庫版を持っていないが。
NETFLIX版の続きは大変楽しみである。第1シリーズの段階だが、本作のエッセンスが、壮大なマコンドのセットを通してしっかり現れている。完結まではまだ時間がかかるだろうし、気長に見守りたい。
流石に世界が滅ぶまでは待ってられないケド……