同じ人間だが全く違う人生
あなたは、現実を変えたい、いまの自分を変えたいと思ったことはないだろうか?
わたしはむしろ変えたくてたまらないのである。笑
もっと自分の望む世界を生きてみたいのだ。
はじめ、なんの脈絡もなくただつづけられたらいいな~とゆるいけど強い意気込みではじめた100日チャレンジで、まさかのたくさんの学びがあった。
ぐーたらでズボラなわたしでもnoteをつづけられているのは、自分の持っている思考や潜在意識をたくさん知るきっかけになっているからでもある。
そしてこの小さな行動が、自分の人生を大きく変えていくことになるなどいまのわたしには想像もつかない。
だがしかし、自分の望む人生を生きる第一歩を踏み出したのだから、当然のように人生はここから変わっていかざるを得ないのだ。
ちょっと想像してみてほしい。
4か月前の2月4日、わたしは100日チャレンジをはじめた。その前にも数回、noteの投稿をしている。
書きたいことがたくさんあったのにもかかわらず、役立たずのどうしようもないおバカなわたしをさらけ出すのが怖くて、全然つづかなかった。
『noteの投稿がつづかないわたし』と、『100日noteの投稿がつづいたわたし』では、同じ人間だが全く違う人生になっていると思わないだろうか。
2月4日の分岐点がスタート地点だとして、いまはまだ目に見える範囲の小さな「く」の字だろう。
だけどその小さなくの字は、わたしがnoteの投稿をつづけていくことで、ゆるやかだけれど確実に右上に向かって伸びていく。
あの日、「どうせわたしは何やってもつづかない人間ですよ~」なんて拗ねたまま何も行動を起こさなかったら、そのときのままの思考で、毎日が変わらないような人生を送っていることは容易に想像がつくのではないだろうか?
どっちがいいという話ではない。どの人生を生きたいかである。
そもそもいま選んでいる道が、たとえ自分の望む人生からかけ離れている道だったとしても、いまはこっちのほうが楽しい!面白そう!と思っているのだから、わたしにとっての正解はこの道なんだ。
ズボラで三日坊主気質なわたしでもnoteを習慣化できたことは大きくて、自分がどんな思考で挫折するのかを知ったことで、いまはウォーキングまでつづいているのだから、わたしみたいにズボラで三日坊主気質なひとでも、変わることは可能である。
ただ、いきなり大きな目標を立てるのはおすすめしない。なぜなら、脳は変化を好まず、安心安全を維持することが優先事項だからである。
いきなり大きな変化を日常にいれようとすると途端に生命維持装置を働かすため、やめさせるための正当な理由を思考へと送り出すのだ。
それに逆らうには、相当なるエネルギーを必要とするため、結局元の木阿弥になってしまう。
これを知っているか知らないかでも差が出る。
小さな目標だったとしても、日常に変化があれば脳はやめるよう指令を出す。
あ~指令が出たな、と気づければこっちのもん!
やるのかやらないのかを自分自身に問えばいい。やるにしてもやらないにしても自分で決めたのだから、どっちも自分にとっての正解なのである。
さて、今日はちび娘のオーダーで、晩ご飯はタコライスのリクエスト。昨日は快くオッケーしたものの、買い出しにいまから行かなくてはいけない。
家にいまある材料でほかのものを作るか、それともちびの願いを叶えるべく買い出しに行くか。大変な選択である。笑
Revenge Day31クリア