「母親としては失格」の烙印を息子に押されました。
自分のことを赤裸々に書こうと思うと、ブロックがかかる。怖いのだ。わたしにかける魔法の言葉は、「だれも見てない」なのだが、少なからずスキしてくれる人がいるということは、読まれているわけだ。
そう思うと、怖くて仕方なくなる。
でも怖がってばかりいても、きっとだれの心にも届かない響かない文章になることは否めない。
人はきっと、ストーリーが好きなのだ。
この人がどんな人で、どんな人生をあゆんで、どんな経験をしてきたから、こんなステキな文章や言葉が書けるのだろうと思うと、ゾクゾクしてしまう。
そう思うわたしはたぶん、人が好きなのかもしれない。興味ないふりしているだけで。
わたしは何の経験もしてないし、冒険すらもしてない普通の人生を送ってきた人間だと思っているだけで、だれかからすると、ひょえ~な人生かもしれない。
ざっくり自分の人生を振り返っても、わたしだって人並な経験はしているわけだ。人並というのは間違いか。だって、だれだって同じ人生をあゆんでいる人なんてこの世にひとりもいないはずだから。
似たような経験をひとくくりにして、人並という言葉が使われるのだろうか?
調べてみると、
はて、普通の人とは?とひねくれモノのわたしは思うのだが、まぁここは、さっきいったように、似たような経験を世間並みとか普通の人とくくっていると前提としよう。
であればやはりわたしは人並だ。
十代で長男、二十代で長女を生み、23歳では離婚も経験している。ほんのちょっと人より早いだけで、特段めずらしいことでもない。
三十代後半で再婚し、40歳になる前に怒涛の妊娠出産ラッシュを迎えた話もいたってめずらしくもないはずだ。
ただ、いまでも少し驚かれるのが、再婚した夫が一回り年下ということぐらいである。
だが考えてみてほしい。
夫と再婚した当時は、たしかにあまり逆歳の差というカップルは少なかったのだが、磯野貴理子は先駆けて24歳年下の男性と再婚していたのだからそうそう驚くことでもないし、いまなんて、逆歳の差カップルはどんどん増えているのだ。
う~ん、やはり人並の範囲を超えそうにもない。
こうやって大雑把に書くと、似たような経験をしている人なんてごまんといるだろう。しかし、しかしだ!
その経験に付随するアレやコレやは同じではないはずだ。
つまり、悩み苦悩し苦しんできたこと。そこにはわたしにしかないストーリーが必ずある(と思う)。
どんなことでどんな風に悩み苦しみ、どうやって解決し、いまにいたるか。
そこに人は惹かれ共感し、癒されたり涙したり笑ったりするのだろう。それを書ければいいというのは理解している。だけどね、書けないのよ。どーしても。
怖いからとかではなく。
単純に記憶にないのだ!!!
県外でひとり暮らししている長男にもよく聞かれたのが、「ひとりで二人の子育てもだし、仕事もあって大変だったでしょ?」ということ。いろんな人にもよく聞かれていたことでもある。
たぶん……。としか答えられないのだ!!!なんせ記憶にないのだから。
自分で自分のことを考察するに、大変だったのは大変だったと思うのね。
だけど、子どもたちが小さかったころはあまりにも大変すぎて、一日いちにちを必死に生き抜くことしか頭になくて、でも気づけばどんどん子育てもらくになり、わたしも遊びまくったし、大変だった記憶が、いや~意外とひとりでもなんとかなるし、むしろ楽勝ってな記憶に塗り替えられてないかってほど、大変だった記憶がないのです。笑
最近長男にいわれたのが、
「母親としては失格だったけど、でも、愛情はいつもたっぷり感じていたよ」と。
まぁ若かったし、親としては未熟な部分も多かったよね。というか、未熟者でしかなかったかも。
そこは悲しいけれど、いまでも成長してない部分でもある。反省。ただ、愛情はしっかり届いてたんだな~とありがたかった。
長男はわたしにとって、息子であり、お父さんみたい。いや逆だ。
長男にとってわたしは、母親だけど、父親がいないぶん、自分が守らなきゃという思いも強かったのだろう。
いまの夫と再婚するとき、「男同士で二人っきりの話がしたい」と夫を連れ出したことがある。
なんの話をしたのかいまだに夫も息子も教えてくれないのだが、想像するに、ちゃんと幸せにできるのかとか、泣かすようなことはしないでだとか、普通はわたしの父親がするであろうことを息子が確認したのかな~と。
それを想像するとなんだかくすぐったい。
息子のいった「母親としては失格」の意味は、いつかまた今度。
親が未熟でも子は育つ。なんなら親は子どもに、親として成長させられている。だれかがいったそんな言葉がしっくりきた。そんな日。
結局自分の言葉じゃなく、だれかの言葉でしか表現できないわたしはまだまだ未熟者だ。なにが悪い!!!笑
Revenge Day51クリア