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純粋に好きでたまらなかった気持ち
自分を大切にするってことを課題に日々実践しているのだが、なんだか今日はモヤモヤする。
その正体を探していてふと思う。
もちろん今日のわたしに対してまだまだジャッジする気持ちがあるのだが、それとは違うモノを発見した。
「価値がない」
自分を大切にすることで、「こんなわたしには価値がない」ってまた思っているのだ。
そもそも何かしてないと価値がないのか?と考えたとき、やはり、社会の役に立ってないし、家族の役にも立ってないと自分には生きてる価値がないという想いがぬぐいきれないのだ。
いまは次の仕事に向けて心身共にエネルギーの充電中だ!と頭では思っていても、心の奥底には恐怖があることに気づく。
価値がない。
これを自分にいい聞かせているのだから、すべてをダメだとジャッジしたくなるのはこのせいなのだろう。
なんの役にも立ってない=価値がない
この方程式は、わたしが父に対して思っていたことだと思い出す。
引きこもりでただ生きているだけでなんの役にも立ってない。社会に貢献してるわけでもなく、家族を大切にしてるわけでもない。だからそんな父には、価値なんてないとバカにしていた。
潜在意識は主語がわからない。
ということは、父に対して思ってたことは、「父」という主語が抜け落ち、自分事となる。
つまり、わたしはずっと自分のことをそういって聞かせてきたのだ。
だからいまのこの現状が苦しくなる。
この記事を書きながら、
" まだ家事や育児をして家族を大切にしてるぶんだけ、わたしのがマシ " って思っていることに気づいた。
だれかに認めてもらうために価値をつけていくのではなく、このままで価値があるってことに気づかなければならない。
なにもしてこなかった父に価値を見出そうと思っていたが、そもそもそれが間違っている。
探したり見つけたりするものではなく、ただ受け入れることなんだと。
これを書いていて、怖いと思った。
なにも生み出していない、なんの役にも立たない、それでも価値があると受け入れるなんて……。
世間がなんていうか、なんて他人の目を気にしてしまう自分がいる。
世間がなんといおうが、わたしの人生はわたししか生きれない。
なにかいってくる他人が、わたしの代わりに、わたしの人生の責任を負ってくれるわけもないのだ。
許せなかった父を本当の意味で受け入れられたとき、わたしの人生は180度変わるにちがいない。
子どものころは大好きだった父。
あのころの気持ちを思い出したいな〜。
ただ純粋に、父がどんな人間であっても、何をしてようがしてまいが、価値があろうがなかろうがそんなこと関係なく、ただただ好きでたまらなかったあのころ。
ああそっか、これが答えなんだ。