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棺桶に入りたかった「私」が、葬儀屋になった話

今日も誰かの最期を飾る仕事が始まる。真っ黒なスーツにネクタイを結びながら、鏡に映る自分に苦笑い。昔は自分が入りたがってた棺桶、今じゃ毎日誰かのために飾り付けてる。人生って、こういう皮肉が似合うんだ。

三年前は、死に場所を探して歩いてた。高層ビルの屋上とか、深夜の線路際とか。でも結局、死に場所も見つからないまま、なんとなく葬儀屋の求人に応募した。死にたい奴が死を扱う仕事。なんか、お笑いコンビのネタみたいだ。

でも不思議なもので、毎朝白木の棺桶に花を飾りながら、どこか落ち着く自分がいる。かつては自分が入る場所を探してた。今は誰かの最期の場所を整えてる。同じ手が、まったく違う意味を持つようになった。

この仕事、意外と細かいんだ。花の配置一つ、ロウソクの角度一つで、故人の最期の表情が変わる。昔の自分には分からなかった。死んだ後の表情って、こんなにも豊かなんだって。

今日の故人は、80代の元教師。遺影の笑顔が、妙に暖かい。きっと生徒たちのこと、最期まで気にかけてたんだろうな。そんなことを想像しながら、棺桶の周りに菊を並べる。

「きれいに見送ってあげてください」

遺族からよく言われる言葉。昔は理解できなかった。死んだら、もう何も見えないのに。でも今は分かる。見送る人の心に、最期の風景が焼き付くんだって。

今日も制服のボタンを留めながら、誰かの人生の最終ページを飾る準備をする。
昔の自分に言ってやりたい。
「死にたかった君が、死を美しく飾る仕事をするようになるよ」って。

きっと笑うだろうな、あの頃の自分。
でも今は、この仕事が私の、確かな生きる場所になってる。

遺族の涙と私の笑顔

葬儀って、意外とマニュアル通りなんだ。お香を焚く時間、読経の長さ、参列者の動線。完璧な台本があって、みんながそれに従う。でも、本当の別れは、そういう形式の隙間でこっそり起きている。

先日の葬儀。若い奥さんが、みんなが帰った後、棺に手を置いて「ごめんね」って。その一言に、夫婦の何年分もの物語が詰まってた。そういう瞬間に立ち会えるのが、この仕事の特権。...って、人の悲しみを特権とか言っちゃう私も、どうかしてるけど。

面白いもので、誰かの死に寄り添う仕事をしてるうちに、自分の中の何かが癒されていった。死にたかった心が、誰かの死を見送ることで、少しずつ生きる方向を向き始めた。この仕事、セラピーの資格でも持ってるのかな。

遺影写真を飾る時、いつも思う。人生の最後に残る「ベストショット」って、意外と普通の瞬間の写真なんだ。特別な記念日でも、記念撮影でもない。何気ない日常の一コマ。そこに写った何気ない笑顔が、一番その人らしかったりする。

「お疲れ様でした」

出棺の時、故人にそう言う。でも実は、死にたかった頃の自分にも言ってる気がする。お疲れ。よく頑張ったね。でも、まだ終われない。だって今は、誰かの最期を飾る仕事があるから。

昨日は、元ヤンキーのおばあちゃんの葬儀だった。遺影の横で、ピースサインの写真が飾られてた。孫が「ばあちゃん、これ好きだったから」って。死の形式張った重さと、思い出の軽やかさが同居してる。人生って、そういう矛盾の集まりなのかも。

そうそう、この仕事を始めた時、先輩に言われたんだ。
「葬儀屋は、悲しみと笑顔の間を行ったり来たりする商売だよ」って。

今やっと、その意味が分かる気がする。

棺桶の中から見た世界

棺桶に花を飾りながら、時々考える。昔の自分が見てた景色って、この中からの光景に近かったのかな。何もかもが遠くて、ぼんやりして、でも妙に安心できる暗さ。今じゃ、その外側から花を添える仕事してる。人生って、視点が変わるだけで全然違う景色に見えるもんだ。

この前、若い子の葬儀があった。遺品整理してたら、机の中から「死にたい」って書いた手帳が出てきた。その横のページに「でも今日はお母さんが好きなカレー作ってくれた」って。人って生きるのも死ぬのも、案外些細なことで決まるのかも。

毎日いろんな人生に触れる。画家だった人の棺には絵筆を。料理人だった人には、愛用の包丁を。そういう「らしさ」を飾りつけながら、自分の「らしさ」って何だろうって考える。今の私の「らしさ」は、誰かの最期を飾ることなのかな。

面白いよね。昔は自分の死に場所ばかり探してた。今は誰かの最期の場所を作ってる。同じ「死」って単語なのに、こんなに意味が違う。故人の遺影を飾りながら、死にたがってた昔の自分に会いに行くみたいな。

先日、認知症のおじいちゃんの葬儀で、遺族が「これ、お父さんが一番元気だった時の写真なの」って。その後に続いた言葉が痛かった。「こんな顔、私たち家族も忘れかけてた」って。記憶って、写真の方が正直なときがある。

そうか。私たちは、誰かの思い出の整理係なのかもしれない。
死に方より、生き方を飾る仕事。

昔の自分に教えてやりたい。
死んでも、誰かが綺麗に飾ってくれるよって。
でも今は、その「誰か」になれて良かった。

死と生の境界線で働く

葬儀屋になって気づいたこと。形式的な「さようなら」より、ふとした瞬間の方が本当の別れだったりする。お経が終わった後の沈黙とか、遺影の前で誰もいなくなった時の空気とか。人生の終わりって、意外とこっそり訪れる。

先週は、猫を20匹飼ってた独居老人の葬儀。香典返しが全部猫のおやつだった。遺族が「こればっかり買い込んでたから...」って、申し訳なさそうに。でも参列者みんな嬉しそうだった。その人らしい最期の贈り物。私も猫のおやつ、今でも大切にとってある。

不思議なもので、死と向き合う仕事をするようになって、逆に生きることが怖くなくなった。昔は「生きてる意味なんてない」って思ってた。今は「意味なんてなくても、今日も誰かの最期を飾らなきゃ」って思える。これって、成長なのか後退なのか。

この前、ある葬儀の後片付けしてて、棺桶の中に小さな紙切れが落ちてた。「パパ、また会おうね」って、子供の字で書いてある。その文字、拾おうか迷ったけど、そのまま棺桶と一緒に...。人生の別れ際って、こういう些細なものの中にあるのかも。

よく聞かれる。「死体とか怖くないの?」って。でも実際は、生きてる人の方が怖かったりする。遺族の悲しみとか、参列者の気まずい空気とか。死んだ人は何も言わないけど、生きてる人は色んなもの背負って生きてる。

今日も白木の棺に花を飾る。
この仕事、実は生命力が必要なんだ。
だって、誰かの死を美しく飾るには、
しっかり生きてないとできないから。

そうか。私、結局生きることを選んでた。
誰かの最期に花を添えるため。
...なんて、死にたかった時の私が聞いたら、
絶対に鼻で笑うような言い方。

今日も誰かの人生を送る

喪服のボタンを留めながら、時々考える。私の葬式は誰が仕切るんだろう。同業者の葬式って、きっと変な緊張感あるんだろうな。「あいつ、花の位置違うぞ」とか「ロウソクの角度、もうちょっとだろ」とか、職業病全開の参列者たち。

でも不思議と、自分の葬式のことはあんまり気にならなくなった。今は目の前の故人の送り方で手一杯。「死にたい」って言葉が口癖だった私が、誰かの死に手を合わせて生きてる。この展開、脚本家が書いても却下されそう。

この前、若い後輩が言ってた。「先輩、昔死にたかったんですよね。私もなんです」って。黙って背中さすってあげた。きっと数年後、この子も誰かの最期を飾りながら、自分の生を確かめてるんだろう。悲しみの連鎖じゃなく、生きる理由の連鎖みたいな。

葬儀の準備って、意外と力仕事なんだ。棺桶運んで、祭壇組んで。死と向き合う仕事なのに、めちゃくちゃ体力使う。だから今は週一でジム通い。死にたかった時より、よっぽど健康的な生活してる。人生って、本当に分からない。

今日の故人は、趣味で写真撮ってた人。遺族が「実は腕あんまり良くなかったんです」って笑いながら写真選んでた。その笑顔の中に、何年分もの愛おしさが詰まってた。へたくそな写真の方が、思い出になりやすいのかも。

明日も、誰かの最期を飾る準備がある。
制服のハンガーに埃はついてない。
毎日着るから。毎日、誰かと別れの儀式をするから。

結局、私は死なないで良かった。
だって、こんなに切なくて温かい仕事、
棺桶の中じゃ出会えなかったから。

...なんて、これも死にたかった頃の私が聞いたら、
「安っぽ」って言うような締めだけど。
でも今は、この安っぽさも悪くない。
だって、生きてるってことは、
そういうことなのかもしれないから。

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