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どこまでが「建前」でどこからが「嘘」なのか-建前という演技-

「前向きに検討させていただきます」。会議室でその言葉を口にしながら、誰もが知っている。これが事実上の拒否を意味することを。でも不思議なことに、この建前は嘘とは呼ばれない。その微妙な境界線に、私たちの社会は支えられている。

面白いのは、建前を見抜く力も、また重要なビジネススキルとして扱われることだ。先日、新入社員が取引先の「検討します」を文字通り受け取って期待していた。それを見た課長が、静かにため息をつきながら「まだまだだな」と呟いた。嘘を見抜く力と、建前を理解する力は、どこか違う。

「できる限り努力します」「善処させていただきます」「可能な範囲で」。これらの言葉は、嘘ではないが、かといって完全な真実でもない。その曖昧な領域で、私たちは日々の人間関係を紡いでいく。時には、その方が誠実だったりする。

不思議なのは、建前の向こう側に見える本音の存在だ。同僚が「体調不良で」と休む連絡を入れた時、誰もが察する。面接の不調を意味することを。その建前は、相手の尊厳を守るための優しい嘘なのか、それとも社会を円滑に回すための必要な方便なのか。

夜の会議室で、また新しい建前が生まれていく。それは嘘ではなく、かといって真実でもない、どこか第三の言語のように。

「表と裏の使い分け」

メールを送信する直前、「いつもお世話になっております」という定型文を加える。その三秒後、同じ相手の対応の悪さに舌打ちをしている自分がいる。「お忙しいところ恐縮ですが」というフレーズを打ちながら、実際には「もっと早く返信しろよ」と思っている。この落差に、時々めまいがする。

面白いことに、表と裏の使い分けは、一種の職業能力として評価される。先日の人事評価で「もう少し場面に応じた対応を」と指摘された後輩は、要するに建前が下手だと言われたようなものだ。察する力、演じる力、使い分ける力。これらは、いつの間にか必須スキルになっている。

「御社のご提案、大変興味深く拝見いたしました」。取引先との商談で、そう切り出しながら、誰もが見積もりの金額に眉をひそめている。この二重性は、ストレスでもあり、しなやかさでもある。表の顔と裏の感情を使い分けることは、ある種の社会的作法になっている。

不思議なのは、この演技が長く続くと、どちらが本当の自分なのか分からなくなってくることだ。丁寧な言葉遣いと本音の愚痴、社交辞令の笑顔と内心の疲労。これらの顔は、すべて本物で、同時にすべて演技なのかもしれない。

夜のオフィスで、また明日に向けて表情を整える。化粧を直すように、言葉を磨き、態度を調整する。この演技の連続に、時々疲れを感じながらも、それが私たちの生きる術なのだと、どこかで理解している。

「空気という審判」

「察するべきだったのに」。先輩が小さくため息をつく。新入社員が取引先に対して直接的すぎる物言いをしてしまった後の出来事だ。建前を使うべき場面で本音を漏らし、本音で勝負すべき場面で建前に逃げる。その見極めの失敗は、時として取り返しのつかない亀裂を生む。

面白いのは、空気を読むことへの要求が、世代によって異なることだ。「もっとはっきり言ってよ」という若手と、「そういうことは察するものよ」というベテランの間で、見えない温度差が生まれている。先日の会議でも、率直な意見を求められて困惑する課長と、もどかしそうに見つめる新人の視線が交差していた。

「この程度の空気は読んでよ」。その言葉自体が、何とも日本的な矛盾を孕んでいる。読むべき空気の存在を明示することで、すでにその空気は変質してしまう。相手を「空気が読めない」と非難する時、実は非難する側も空気を読み損ねているのかもしれない。

不思議なのは、空気の読み方に正解がないことだ。同じ場面でも、人によって解釈が異なる。取引先との飲み会で、上司の冗談にどこまで笑うべきか。接待の席で、どこまで本音を見せるべきか。その匙加減は、誰もが手探りで学んでいく。

夜の居酒屋で、また新しい空気が流れ始める。建前と本音が、お酒の力を借りて少しずつ位置を変えていく。その境界線の揺らぎを、私たちは時に楽しみ、時に恐れている。

第四話「本音の居場所」

「本音で話しましょう」という上司の言葉に、会議室が凍りつく。本音を求められること自体が、新たな建前になっている。その矛盾に気づきながらも、誰もが頷くしかない。本音を語ることを強要される状況ほど、皮肉なものはない。

面白いことに、本音を語る場所すら、既に形式化されている。飲み会での「本音トーク」、オフサイトミーティングでの「本音の議論」。まるで、本音を出すことにも、決められた時間と場所があるかのように。先日も、課の懇親会で「ここだけの話」と切り出された瞬間、皆が身構えるように背筋を伸ばした。

「もっと素直に言えばいいのに」。その言葉を口にしながら、私たち自身が最も素直になれていない。メールには絵文字を付けて柔らかさを演出し、会議では相手の顔色を窺いながら発言する。建前という防具を脱ぎ捨てた時の、生身の痛みが怖いのかもしれない。

不思議なのは、時として建前の方が本音より正直なことだ。「ご検討させていただきます」という言葉の丁寧さの中に、実は「難しいです」という本音が透けて見える。私たちは、建前の形式を借りて本音を伝え、本音のように見える言葉の中に建前を忍ばせる。

夜のコンビニで、アルバイトの店員が「いつもありがとうございます」と言う。その言葉が建前でも、この深夜に働く誰かへの感謝は本物かもしれない。建前と本音は、時として不思議な形で混ざり合っている。

「建前という作法」

取引先との会食で、誰かが「本音で語り合いましょう」と言い出した。その瞬間から、むしろ会話が不自然になっていく様子を眺めながら考える。本音と建前は、明確に分けられるものなのだろうか。それとも、グラデーションのように溶け合っているものなのか。

面白いことに、建前は時として最も誠実な伝達手段となる。先日、辞意を漏らした同僚に「引き止めさせていただきたい」と伝えた課長の言葉。その建前の中には、「あなたの価値を認めている」という本音と、「でも強要はしない」という配慮が、絶妙なバランスで織り込まれていた。

「もっと率直に言い合える関係になりたい」。その願いを口にしながら、実は建前という緩衝材の大切さを、私たちは身にしみて知っている。メールで謝罪する時の「お手数をおかけし」という決まり文句。一見形式的なその言葉の中に、実は最も真摯な謝意が込められていたりする。

不思議なのは、建前が失われていく時代に、かえってその価値が見えてくることだ。SNSでの生々しい本音の応酬、匿名での容赦ない批判。その殺伐とした空間を見るたび、建前という作法が持つ知恵の深さを、改めて感じる。

夜の電車で、またメールの返信を書いている。「恐れ入ります」という言葉を打ちながら、その建前の向こうに、確かな誠実さを滲ませようとする。それもまた、私たちの生きる術なのかもしれない。

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