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なぜ人は「自分を褒めた人」を疑うのか-褒められ上手は、嘘を見抜く-

「プレゼン、良かったですよ」

その言葉を聞いた瞬間、脳内で警報が鳴り出した。なんで急に?これから何か頼まれる?昇進の話の前フリ?この後、厄介な仕事が飛んでくる前触れ?あるいは、単に帰りたいのに残業させられる伏線?

褒め言葉って、不思議な力を持ってる。相手の本音を探りたくなる衝動。裏を読まずにはいられない強迫観念。「そんなことないです」って否定したくなる反射神経。

この前、営業が来た時も同じ。
「センスいいですねぇ」
「若いのに仕事出来ますねぇ」
この「ねぇ」の数で、商談の難易度が分かる。褒め言葉の量と、要求の大きさは比例する。これ、社会人の基本スキル。

面白いよね。褒められ慣れてない人ほど、褒め言葉に敏感になる。まるで、久しぶりに食べる甘いものに、砂糖が入ってないか疑う人みたい。純度を確かめないと、素直に口に入れられない。

同僚が「その服、似合ってる」って言ってきた時も、すぐにカレンダーをチェックした。昇給査定の時期?異動の時期?それとも単なるお世辞?この疑心暗鬼、いつから身についたんだろう。

結局、褒め言葉の真贋を見分けるため、私たちは毎日、科学者みたいな分析をしている。純度を測って、不純物を探して。

今日も誰かの「素敵ですね」という言葉に、
どれくらいの本音が含まれているのか、
試験管を覗き込むように見極めている。

媚びという名の罠

「〇〇さんじゃないと、この仕事は任せられないんですよ」

上司のこの決まり文句、大体この後に「だから、ちょっと残業を...」が続く。この法則性に気づいてから、褒め言葉への警戒レベルが上がった。まるでウイルスソフトのアップデートみたいに。

営業マンの褒め言葉講座があったら、きっと単位認定されるレベルの上手さ。「さすが」「流石」「やっぱり」。この三段活用を使いこなす話術。でも不思議と、媚びられることへの期待と嫌悪が同居している。褒められたい、でも褒められると警戒する。この矛盾した感情。

先日、部長が急に「君の意見、いつも的確だね」って。
その瞬間、脳内で緊急会議が始まった。
議題:「この褒め言葉の市場価値と、その後に来る要求の規模の予測について」

面白いよね。褒め言葉の市場原理。
「素晴らしい」は「お願いします」の前払い。
「信頼してます」は「無理を聞いてください」の敷金。
「頼りになる」は「休日出勤よろしく」の手付金。

この前、後輩が急に「先輩って仕事できますよね」って。
思わず財布を確認しそうになった。
お金の貸し借りの前フリかと。
これって、褒め言葉に対するPTSDなのかな。

カフェで隣の席から聞こえる営業トーク。
「〇〇様ほどの目利きなら、きっとお分かりかと」
聞いてるこっちが恥ずかしくなる媚び具合。
でも、これが商談を成立させるんだから、
この世界は複雑だ。

今日も誰かが誰かに媚びている。
誰かが誰かの褒め言葉に警戒している。
この永遠の駆け引きの中で、
本当の褒め言葉の居場所はどこにあるんだろう。

褒め言葉の解読作業

「ほんとに?」

褒められた後の、この確認作業。まるでメールの添付ファイルにウイルスが入ってないか確認するみたいに、褒め言葉の純度をチェックする。「本気で言ってる?」「お世辞?」「これ、皮肉?」この解読作業に、どれだけの時間を費やしてきただろう。

新しい服を着た日。「似合ってますね」って言われて、三秒後には鏡の前。本当に似合ってるのか、それとも社交辞令なのか。相手の目の動き、声のトーン、表情の微妙な変化まで分析する。FBI並みの観察眼が、いつの間にか身についてた。

面白いよね。プレゼンの後の「良かったです」にも、グレードがある。
「すごく良かったです!」は明らかな嘘。
「良かったですね」は及第点。
「まあ、良かったんじゃない?」が一番信用できる。
この微妙なニュアンスの違いを読み取る、闇の技術。

先週、彼女が「頭いいよね」って言ってきた。
その後30分は、この言葉の裏を読む作業。
なんか借りたいものがあるのか、
浮気がバレそうなのか、
それとも、マジで褒めてるのか。

褒め言葉を、すぐに「いやいや」って否定する癖。
「そんなことないです」という安全装置。
褒められることへの怖さか、
それとも、期待に応えられない不安か。

カラオケで「歌上手いね」って言われた時。
防犯カメラの映像を見返すように、
その瞬間の相手の表情を思い出す。
目が笑ってたか、
声のトーンは自然だったか。

この解読作業に疲れた心と、
それでも褒め言葉が欲しい本音が、
いつも綱引きしている。

純粋な褒め言葉の重さ

保育園の娘が描いた絵を見せながら、「パパ、すごいでしょ?」って言う。その時の褒め言葉だけは、なぜか素直に受け取れる。子供の褒め言葉には、計算がない。市場価値がない。見返りを求める警戒音が鳴らない。

いつから私たちは、褒め言葉に対して、この面倒な生き物になったんだろう。小学生の頃は「上手だね」の一言で一日中機嫌が良かった。中学生になって「かっこいいじゃん」って言われただけで、一週間は浮かれてた。

今じゃ違う。
上司の「いい仕事してる」に、すかさず締め切りの確認。
同僚の「センスいいね」に、残業の予感。
恋人の「優しいね」に、何か失敗の前触れ。

面白いよね。純粋な褒め言葉って、逆に受け取るのが難しい。まるで、強すぎる光を直視できないみたいに。素直に喜んでいいのか、警戒すべきなのか、この判断に疲れる。

この前、後輩が心から「ありがとうございます」って言ってきた。その純度100%の感謝に、かえって困ってしまった。大人になるって、こういう素直な言葉を受け取れなくなることなのかな。

娘の通う保育園の前を通りながら考える。
あの頃の私たちは、
もっと褒め言葉を信じられた。
もっと素直に喜べた。

今はもう、あの純粋さは失くした。
でも時々、誰かの心からの言葉に触れて、
懐かしさと温かさを感じる。

それは多分、
忘れかけていた自分を
思い出させてくれるから。

褒められることの怖さ

今日も会社で「さすがですね」という言葉を受け取った。その瞬間、いつものように解読モードに入ろうとした自分を、ふと傍から見る。なんだか滑稽だ。まるで、贈り物の箱を振って中身を確かめる子供みたい。

面白いよね。褒め言葉への免疫って、幸せへの耐性なのかもしれない。素直に喜ぶと、その分だけ傷つく可能性が上がる。だから私たちは、褒められ上手という防具を身につけた。

この前、母が古いアルバムを見せてくれた。運動会で一等賞を取った時の写真。「すごいね」って言われて、無邪気に笑ってる子供の顔。その頃は、褒め言葉に含まれる純度を疑う技術なんて、持ち合わせてなかった。

電車で誰かが誰かを褒めている。
若い女の子同士の会話。
「その服、マジ似合ってる!」
「えー、嘘でしょ?」
この不信感の伝染。
もう、社会病なのかもしれない。

窓の外を走る景色を見ながら考える。
純粋な褒め言葉は、実は存在する。
でも、それを素直に受け取れる心は、
もう失くしてしまったのかな。

帰り道のコンビニで、店員が「お疲れ様です」と言う。
この言葉にも裏を読もうとして、思わず笑ってしまう。
時には、ただの「ありがとう」を
「ありがとう」として受け取ってもいいんじゃないか。

夜空を見上げる。
星は、見る人の思惑なんて気にせず、
ただ光っている。
褒め言葉だって、
そうあっていいはずなのに。

ポケットの中の娘の絵。
「パパ、すごいでしょ?」
この純粋な自信に、少し憧れる夜。

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