真面目なわたしが、なぜ「エロ」と向き合うことにしたのか
匿名でないと綴れない想いがあると気づき
ここで昇華させていくことにする。
きっかけ:夫以外の人を好きになってしまった
わたしは、元来真面目な性格で、清く正しく生きてきた。
いわゆる社会的な正しさを信じ、そこから外れないように生きてきた。
でもあるとき、わたしが信じた「社会的な正しさ」は虚構であると気づく。
物事をロジカルに考え抜く性格だったこともあり
なぜ?を繰り返し掘り下げていくと、わたしが信じた「常識」や「社会的な正しさ」はすべてどこにも根拠がないと気づいてしまった。
たとえば、「浮気してはいけない」という「常識」を参考程度に2パターン掘り下げてみる。
パターン①
なぜ浮気してはいけないのか?⇒常識だから。⇒その常識は誰が決めたのか⇒法律?⇒その法律は誰が何のために決めたのか⇒(答えられない/答えられたとしてもその理由まで言える人はたぶんほとんどいない)
パターン②
なぜ浮気してはいけないのか?⇒された側が傷つくから⇒それはあなたの感想ですよね?(ひろゆきムーブw)100人いれば100通りの考えがあるこの世界において、相手が必ずしもそうだと言える根拠は?⇒(答えられない)
物事にはすべて理由があると信じて生きてきたわたしにとって、それは天地がひっくり返るような衝撃。物事には、はじめから理由なんてなかったのだ。人間はみんな色々それっぽい言い訳をしながらも、シンプルに、ただやりたいことをただやっているだけなのだ。
そこに気づいてしまうと、自分の行動に制限をかけているのは、すべて自分の認知でしかないと気づいてしまう。つまり、すべてが自己責任。
自分の願いに対し、その願いの実現が物理的に可能な限り、「できない」理由は自分への言い訳にしかならない。
そんなわたしが、ある日、夫以外の人を好きになってしまった。
好きで追うほど拒絶される痛み
わたしは元々浮気性だったわけではない。むしろ一途なほうだし、夫のこともずっと大切にしてきた。息子のことも。まさか自分がほかの男性を追いかけることになるとは一ミリも考えたことはなかった。
でも、出逢ってしまった。
まるで自分と鏡合わせのような人間に。
人間は本質的には自分のことが一番好きだし大切。
自己肯定感の低かった時期は、そう言われても意味がわからなかったが、自己肯定感の低さというのは、他者から自分が傷つけられないようにするための自己防衛反応のひとつ。つまり歪んだ自己愛と言える。
きっと彼も、無意識ながらわたしの中に自分を見出したのだろう。
そこまでしてくれるの!?という勢いでわたしのことを褒めちぎってくれた。自分に自信が持てないわたしへ、前向きになるための色んな情報提供をしたり、つらいときに寄り添ってくれたり、ハードワーカーでいつも死にかけた顔してるのに、睡眠時間を削ってまでわたしとの会話に時間を割いてくれた。
(深夜にzoom6時間を複数回は狂気の沙汰w)
自分と似ている(ように見えた)人間に、ここまでされて、好きにならないわけがなかった。
なぜかと言えば、わたしは30年近く生きてきた中で、常にだれにも理解されない悲しみを抱えていたから。
きっとそれは彼も同じだった。彼もわたしを「自分と似ている」と認識していた。お互いがお互いに「この人となら分かり合えるのでは」という期待を抱いてしまったのが、その後激しい痛みを引き起こすトリガーとなった。
お互いが相手に好感を抱いてから急速に距離が近くなっていった。でもお互い既婚者で、わたしは子持ち。彼もこれから子どもが産まれるところだったから、いわゆるプラトニック不倫のような関係性を維持しようとした。
だけど結局は他人同士。どれだけ似ていても、自分ではない。
気づけばお互い勝手に自分と相手を同一視し、「似ている」前提で相手を見ることで「違い」を発見するたびに勝手に傷つくようになった。
わたしは彼との関係性を明らかにしたがった。合意の取れた境界線を明確にして、安全な範囲で彼との関係性を楽しみたかったから。彼がわたしにどんな感情を向けているのかよくわからなかったから。
でも、その想いはおそらく彼には違う形で映った。
「関係性のことは聞かないで」
怒り気味に、突き放されるように返ってきたその返信に傷ついた。
なぜ怒られているのかもよくわからず、わたしはただ彼に嫌われたくない一心で謝った。
その頃から、彼からの対応が冷たくなっていった。
「ただでさえ仕事が忙しいのに、これ以上えろちゃんに時間割けないよ」
(でもSNSを見ていると、たくさんの友人たちの悩み相談に時間を割いている様子がわかる)
「そんなに連続で連絡されると苦しい」
(わたしが彼の沈黙に対してあれこれ考えすぎて不安になって、追いメッセージを7通とか送ってしまっていた)
一方でわたしはテキストコミュニケーションがすれ違いを起こしていると考え、必死に彼と直接話す機会を作ろうとした。その中で共通の友人に相談をしたことが、よくなかった。
「なんで俺ら二人の問題なのに、他の人に話すの?」
「俺にとって安心できるコミュニティが、安心できない場所になった」
わたしからしたら、信頼できる友人たちは誰にも言いふらしたりしないよ、みんなを信じてないの?と思った。し、それも伝えた。でも彼とのコミュニケーションはすでにうまく意思疎通を果たすことができなくなっていた。
なぜならお互いに、相手に自分勝手なイメージを投影し合っていたから。
二人とも頭の中で勝手に生み出した「相手」と会話していたことに気づかなかった。会話が噛み合うわけがない。
わたしは彼を理解しようとしたり、自分の想いを正確に伝えようと努力した。でも追えば追うほど逆効果で、彼からは無視や拒絶だけが返ってくる。
いつのまにか夫よりも好きになってしまった相手に拒絶される痛みは、死に匹敵した。
顔が好きとかお金持ちだからとかモテそうだからとか頭がいいからとかそんな上っ面の情報だけで好きになったわけじゃない。
彼だから好きになった。信念とか価値観に共感できる部分が多くて、あとは自分でもなんでそんなに惹かれるのか理解できなかった。もはや見えない力に引き寄せられているとしか思えなかった。そこまで深く他人に想いを寄せたことはなかったから、実は30過ぎての初恋だったのかもしれない。
顔はよく見たらそこまでタイプじゃなかったし、お金にもわたしはあまり執着していない。頭の良さも別にどうでもいい。なんなら別に好きじゃない要素もあるし、モテ要素はわたしにだってある。ただ誰でも良くはないから、遊んで来なかっただけ。
それでも彼と意思疎通をはかることは叶わなかった。
(一瞬仲直りしたが、1日と持たずにまた激しい拒絶がやってきた)
追いかけちゃいけない。
今のわたしは客観的にみたら悲惨な状態で、哀れな女に成り下がっている。
相手は既婚者子持ち。
冷静に考えたら一方的に追っていい相手ではない。
そのまま、男に縋る哀れな女で居たいのか?
自分でそう気づくまで、追っては傷つく体験を何度も何度も何度も繰り返した。
夫との離婚
わたしはすでに「一般的な価値観」というものに縛られていなかったため、一部海外では珍しくない「オープンな関係性」を構築しようとした。
簡単に言い換えると、夫のことも大切に想っているが、彼との交際も認めてもらおうとした。わたしは長年連れ添った人生のパートナーである夫に、隠し事をしたくなかった。正直にほかに好きな人がいると打ち明けていた。
しかし夫にどれだけ説明を試みても、わたしの力不足か、うまく伝えることはできなかった。
「それって浮気でしょ?」
わたしから見たら、夫の言いたいことは理解できた。たしかにこの国ではそれを浮気と呼ぶ。でも実際は浮ついた感情で相手を見ていない。どっちの人間もわたしは大切にしたかった。その違いをうまく説明することができなかった。
ほかにもいろいろな要素があり、たくさん考え抜いたり話し合ったりした結果、最後に残った選択は「離婚」しかなかった。(もちろん、息子への影響も考えた上で)
世界の本質に気づく
わたしは本職のスキルアップ目的にひたすら自己と向き合い続けてきた。自分の内面を知れば知るほど、本職(対人支援)でクライアントによりよい質でサービス提供ができる。
はじめはクライアントのためだった。でもほんとうは違っていた。潜在意識に導かれ、わたしは「自己実現欲求」に突き動かされていたのだ。
やればやるだけ自分が変わっていく。暗くて頭の堅い神経質な性格だったわたしが、明るくて柔軟で軽やかな性格へと変貌していった。
そして自分の秘められた領域、潜在意識を掘り下げていった先で、この世界の本質に気づいてしまった。第六感の顕在化。いままでわたしが見てきた世界は、現実のようで現実ではなかったと知ってしまった。
わたしが見ている世界は、わたしがどう認識するかによって創られているのだ。目の前で起きていることはただの現象でしかない。事実は、わたしがそれをどう解釈したかで左右される。頭の中にしか、真実は存在しない。
自分を愛する旅へ
自分のメンタルの調子を整えることが、幸せな人生を歩むうえで最も必要な要素であると理解した。調子が悪ければ、目の前で起きた現象に意味づけをするとき、ネガティブな意味づけをしがちだから。(誰しもが経験あるはず)
メンタルを整える手段や、どこから観察するか?の角度はたくさんある。
書ききれないため結論だけ述べると、要はバランスがとれていればいい。
行動と休息
精神と肉体
優しさと強さ
自責と他責
そしてあらゆる角度で自分を俯瞰しながらバランスを整え続けてきた。
その過程で、自分の幼少期の心の傷とも向き合ってきた。幼少期の傷は、地層に例えるなら震源地のようなもの。表出する地面で地震(=トラブル)が起きているとき、表面をどうこうしても地震は収まらない。震源地がそもそも悪さをしないように対策することが根本的な解決に繋がる。
(実際は地震の場合は対策難しいけど、例えとして)
かなり内面と向き合った結果、自分のメンタルの状態はかなり整っていった。不思議なことにメンタルが整うと、外面の世界、すなわち肉体の健康とか生活環境・習慣にも意識が向く。もっといえば美容などにも意識が向く。その流れで次は自分自身をまるごと再構築していくような体験をしてきた。
ご自愛をテーマに自分と向き合い続け、気づけばこのテーマもある程度やり切ったことに気づいた。ストイックな性質なのもあり、やると決めたら一気に突っ走るところがある。(良くも悪くもw)
でもまだ何かが足りない。
あと着手していないのはなんだろう?
そんな問いを掲げていたところ、気づいたのが「性」だった。
わたしは、自分の「性」とあまり向き合ってこなかったことに気づいた。
社会的に「性」は「恥ずかしいもの」とされ、抑圧されがちなテーマ。
そもそもわたしたちは皆、親のセックスがあって生まれてきた存在。性ありきの存在。植物も動物も性があるから繁殖していく。とても自然なこと。
すべての物事の根源は「性」であると言っても過言ではない。
生命の誕生は少なくともオスとメスの要素があるから成立する。
なのにどうして皆恥ずかしがるのか。
それは、社会的に垂れ流されるメディアが生み出したイメージから来ているのでは?と仮説を持っている。汚らしいイメージを与える広告や、加害者と被害者の構図のある広告などから、「エロ=害悪」だと、わたしたちは無意識に刷り込まれている。
確かに性犯罪はあってはならない。合意なきセックスは悲劇を生む。
でも性癖を抑圧する必要はない。相手と合意がとれていて、あらゆるリスクに対し責任を負う覚悟があるのなら、各々好きにしたらいい。それも多様性のひとつ。
誰にも迷惑をかけていないのなら、罪の意識を持つ必要もなく、胸をはっていたらいい。素直な気持ちで楽しめばいい。
でも、頭に刷り込まれた認識が自分を「異常者」だと認識して、自分で自分を無意識に罰するケースがある。人に相談しづらいテーマなのもあり、人知れず苦しむ人はきっと多い。
…という課題が社会的にありそうだと気づいたとき、わたしはまずは自ら「性」についてもっと考えてみたいと思った。わたしが我が身を通して知ることで、誰かの助けになるかもしれない。それに、シンプルにわたしもきっと自分の身体を知るのは楽しい。知らない世界を知ることに好奇心がある。
結局どれだけ変貌を遂げようと、わたしはわたしなのだ。本職でもこのアカウントでも、ベースにある考えは同じ。まずは自分で体験してみて、その智慧をつかって人助け。それを生業にしている。
明るい性をたのしもう
わたしの性癖はたぶん少し癖がある。だけど、そう思っているのは他人の性癖を知らないから。仮説では案外みんなそれぞれ癖があるんだと思う。「変」だと思いこんでいるから言えないだけで。
だからまずはわたしは何を「きもちいい」と思うのか、行為によってどんな反応があるのか、他人はどんなパターンがあるのか、色んな角度で性を探究してみたくなった。
いままで向き合ってこなかったテーマだけに、未知の領域があまりにも広い。知らないことを知るのが大好きなわたしとしては、わくわくしかない。
そんなクソほど真面目すぎる思考から、女性用風俗デビューをする流れへ行きつきました。なかなかいないでしょ、こんな真面目にエロと向き合う女。
もしわたしの活動を応援したい気持ちをもっていただけたら、ぜひぜひフォローの上、今後の投稿もお楽しみいただければと思います。知見溜まってきたら、別で心理に寄り添う形でコンサルセッション的なこともできるかもしれないね。本職もそんな感じなので。
知的な(?)官能世界をどうぞご堪能ください。笑
長文を読んでいただきありがとうございました。